第1章 欠番の宿場町
1-10 薬屋に戻らない雨
赤屋根亭へ入ったのは、安全だからではなかった。
まず、ユイを通りから見えない場所へ移す必要があった。
女将は裏口の戸を開け、灯りを片手で覆った。
「足元、気をつけな」
ユイは小さく頷いた。だが、すぐには中へ入らなかった。
南門から戻る道の途中で、何度も薬屋の方角を見ていた。今も、狭い路地の向こうにあるはずの店を探している。
見えるはずはなかった。
それでも、見ようとしていた。
サナが先に裏口をくぐった。控えは南門詰所へ戻してきたが、胸の前で手を握ったまま離さない。何かをまだ抱えているような姿勢だった。
リオは最後に入った。戸の外を一度だけ確認し、足音が遠ざかってから女将に頷いた。
女将は閂をかけた。
赤屋根亭の裏部屋は、客に見せる場所ではなかった。古い毛布、使わなくなった椅子、割れた桶、荷運び用の縄が壁際に寄せられている。小さな窓には厚い布がかけられ、外から中の灯りは見えない。
ユイは部屋の中央まで来て、立ち止まった。
座ろうとしない。
女将が椅子を一つ出した。
「座りな」
ユイは首を横に振りかけたが、途中でやめた。言い返す力が残っていないようだった。布袋を膝に置き、両手で口を押さえるように握った。
サナは壁際に寄り、息を整えている。
「私、荷預かり所に戻らなくていいのかな」
「今夜は戻らないでください」
リオは言った。
「あなたが現場で何を見たか、誰に聞かれるか分かりません」
「控えは置いてきた」
「それでいいです」
「持ってきた方がよかったんじゃないの」
「いいえ。持つ人間が増えれば、狙われる人間も増えます」
サナは悔しそうに目を伏せた。
「覚えてる。差し替えの時間も、元札がないことになっていたことも、署名欄が空だったことも、受取人名がなかったことも」
「それで十分です」
女将は窓の布を確かめた。
「私は、赤屋根亭から廃材は出していない。それだけ言えばいいんだね」
「はい」
「それ以上は」
「危険が増えます」
女将は短く頷いた。
「分かった」
ユイは黙って聞いていた。
自分について話されているわけではない。だが、全部が自分に近づいてくる話だった。
南門の木箱。
半年前の薬。
ミナという名前。
外套の男の視線。
薬屋の控え。
祖母。
どれも別々だったものが、急に一つの線で結ばれてしまったようだった。
リオは女将へ向き直った。
「薬屋へ知らせを出してください。ユイさんは無事。今は赤屋根亭の裏部屋にいる。今夜は薬屋へ戻さない。詳しい話は外でしない。この四点だけで構いません」
女将は奥の扉を開けた。
「トマ」
廊下の向こうから返事がした。
「裏から薬屋へ行ってきな。表通りは使うんじゃないよ」
若い男の足音が近づいた。
「何て言えば」
女将はリオの言葉をそのまま繰り返した。
「ユイは無事。今はうちの裏部屋にいる。今夜は薬屋へ戻さない。詳しい話は外でしない」
トマは一瞬黙った。
「婆さんが来るって言ったら?」
女将はすぐには答えず、リオを見た。
リオが言った。
「連れてこないでください。動けば、薬屋が空になります」
女将は頷いた。
「来るなと言いな。ユイを守るためだって」
トマは小さく息を呑んだ。
「分かりました」
「それと、何か渡すと言ったら受け取ってきな。中身は聞かなくていい」
「はい」
足音が遠ざかった。
扉が閉まると、部屋の中に静けさが戻った。
ユイは顔を上げた。
「おばあちゃん、来ない方がいいんですか」
「はい」
リオは答えた。
「薬屋が空になると、あなたが戻っていないことが早く知られる可能性があります」
「でも、一人でいたら」
「危険はあります」
リオは否定しなかった。
ユイの指が布袋の口を強く握った。
「じゃあ、私が戻った方が」
「危険が増えます」
リオの声は静かだった。
「あなたが戻れば、南門で見られたこと、半年前に薬を届けたこと、薬屋の控え、ミナさんと思われる少女の確認が、薬屋で一つに繋がります」
ユイは何も言えなかった。
分かっていた。
分かっているから、返せなかった。
女将が低く言った。
「あんたが戻ったら、婆さんはあんたの前に立つよ。誰が来ても、何を聞かれてもね」
ユイは女将を見たが、何も言えなかった。
サナは椅子に腰を下ろした。膝の上で両手を握っている。
「ミナは、詰所にいるんだよね」
「はい」
リオは答えた。
「今夜は動かさない方がいいでしょう。水を少しずつ。毛布。火は強くしすぎない。長い証言は取りません」
「名前も?」
ユイが聞いた。
「急がせません」
「でも、ミナって言いました」
「はい」
「ミナ・ロウは、分からなかった」
「その反応でした」
ユイは少し考えてから、目を伏せた。
「じゃあ、ロウって名前は、本当の名前じゃないかもしれないんですね」
「その可能性はあります。ですが、今は確定しません」
「名前って、そんなに簡単に変わるんですね」
女将が短く息を吐いた。
「変えられるんだよ。本人が望まなくてもね」
サナは何も言わなかった。
リオも、それ以上は続けなかった。
今夜は、ミナと呼ばれた少女に過去を語らせる夜ではない。
木箱から出され、水を吸い、毛布の中で息を整えるだけで十分だった。
やがて、裏口の方で小さな合図がした。
女将が灯りを下げた。
サナが身を固くする。ユイも椅子から立ちかけた。
リオは扉の横へ移動した。声は出さない。位置だけを変えた。
「私です」
トマの声だった。
女将が閂を外した。
トマは一人で戻ってきた。肩に少し息が上がっている。手には、濃い布で包まれた小さな荷があった。
ユイは一歩前へ出た。
「おばあちゃんは」
トマは目を伏せた。
「薬屋にいます」
「来なかったの」
「来ませんでした」
ユイの顔が止まった。
女将が布包みを受け取った。
「何か言ってたかい」
トマは頷いた。
「ユイは薬屋へ戻すな、と」
ユイの手が止まった。
「それだけ?」
「いいえ」
トマは言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「私では、あの子を守りきれない。だから戻すな、と」
部屋の中が静かになった。
ユイの口が少し開いた。けれど、声は出なかった。
トマは続けた。
「店はいい。私もいい。あの子が先だ、と」
ユイは下を向いた。
その顔を見て、女将はトマに奥へ下がるよう手で示した。トマは何も言わず、廊下へ消えた。
女将は布包みを机の上で開いた。
傷薬。
包帯。
針。
糸。
乾いた根。
小さな水筒。
替えの布。
細く丸めた靴下。
それから、小さな袋。
ユイはその袋を見た。
「月根草」
「朝、受け取ったやつかい」
女将が聞く。
ユイは頷いた。
「薬屋の奥に置いたはず」
女将は袋をユイへ渡した。
「使うかもしれないから持たせろってさ」
ユイは袋を受け取った。
指先で結び目を確かめる。いつもの薬屋の仕事の仕草だった。けれど、その袋を結んだ祖母の手は、ここにはなかった。
「おばあちゃんは、何か聞かれたら」
トマの代わりに、女将が低く言った。
「知らないと言うんだろうね」
ユイは袋を握った。
「そんなの、危ない」
「危ないよ」
女将は否定しなかった。
「でも、あんたが戻ったらもっと危ない」
ユイは首を横に振った。
「私のせいで」
「違います」
リオが言った。
ユイはリオを見た。
「違わないです。私が声を出しかけたから、見られた」
「木箱は止まりました。中に人がいる可能性は確認されていました。あなたが反応しなくても、開封は行われました」
「でも、あの人は私を見た」
「それは事実です」
ユイの目に涙が浮かんだ。
「じゃあ、やっぱり」
「あなたが悪いという意味ではありません」
リオは声を変えなかった。
「危険になったという意味です」
その言い方は冷たくなかった。
けれど、逃げ場のない言い方だった。
ユイは月根草の袋を握ったまま、椅子に座り直した。涙はこぼれなかった。こぼさないようにしている顔だった。
サナが小さく言った。
「私も、戻れないんだよね」
「今夜は」
リオが答えた。
サナは頷いた。
「荷預かり所に戻ったら、誰に何を見せたか聞かれる」
「はい」
「控えを持ってないのに?」
「持っていないからこそ、聞かれる可能性があります」
サナは苦い顔をした。
「面倒なことに首を突っ込んだ」
女将が言った。
「今さらだね」
サナは少しだけ口元を動かした。
「控え一枚分のつもりだった」
「一枚で済まなかったね」
それだけで、会話は終わった。
軽くはならなかった。
だが、誰かがまだ普通の声を出せることだけは分かった。
リオは包みの中身を確認したあと、祖母の荷物をユイの前へまとめた。
「必要なものだけ持ってください。多すぎる荷は動きを遅くします」
ユイは頷いた。
「傷薬、布、月根草、水筒」
「針と糸も」
女将が言った。
「服が裂けた時に困る」
ユイは針と糸を見た。
「使えます」
「だろうね」
女将はそれだけ言って、窓の布を確かめに行った。
リオはサナへ向き直った。
「覚えていることを、順に確認します」
「今?」
「短く」
サナは背筋を伸ばした。
「昨日の夕方に差し替えがあった。元札は、ないことになってた。南方引き渡し、赤紐、赤屋根亭廃材。署名欄は空白。受取人の名前もない」
「誰に見せましたか」
「リオさん、女将さん、門番。あと、南門にいた連中は見てる」
「それで十分です」
「覚えておけばいいんだね」
「はい。物を持つより安全です」
サナは両手を見た。
「何も持ってないのに、手が落ち着かない」
誰も返さなかった。
それは、その通りだった。
女将が戻ってきた。
「表の客は寝てる。起きてるのがいたとしても、裏までは来ない」
「出る道は」
リオが聞いた。
「二つある。荷運び用の細い道と、井戸の裏へ抜ける道」
「人目が少ないのは」
「雨が降れば井戸の裏だね。誰も水を汲みに出ない」
リオは窓の方を見た。
「降りそうですか」
女将は少しだけ鼻で息を吸った。
「空気が湿ってる。屋根が鳴る前の匂いがする」
ユイは薬屋の方角へ顔を向けた。
「おばあちゃん、濡れる」
女将は答えなかった。
リオも答えなかった。
祖母は薬屋へ残った。
自分で決めて、残った。
それを慰める言葉は、今はなかった。
ユイは布袋の中へ、祖母から届いたものを一つずつ入れた。傷薬、包帯、針、糸、月根草。手つきは震えていたが、順番は間違えなかった。
薬屋で何度もやってきた作業だった。
それが、家を離れる準備になっている。
ユイはそのことを、手を動かしながら理解していた。
「リオさん」
「はい」
「これ、どこまで行くんですか」
リオはすぐには答えなかった。
「まずは町の外へ」
「それからは」
「状況を見て決めます」
「帰る場所はありますか」
「あります」
「本当に?」
「帰れるかどうかは、これから決まります」
ユイは小さく息を吐いた。
「やっぱり正直ですね」
「嘘をつく場面ではありません」
「知ってます」
ユイは月根草の袋を布袋の奥へ入れた。
その声は、少しだけ落ち着いていた。
外で、風が変わった。
窓にかけた布が、ふっと膨らんだ。遠くの屋根が小さく鳴る。
女将が顔を上げた。
「降るね」
その直後、屋根に小さな音がした。
一つ。
間を置いて、もう一つ。
雨粒が屋根板を叩いた音だった。
ユイは窓の方を見た。布で外は見えない。それでも、雨の匂いは入ってきた。土と木と、冷えた石の匂いだった。
「雨」
誰もすぐには返事をしなかった。
雨音は少しずつ増えていった。町の灯りは、窓の布越しに淡く滲んでいる。赤屋根亭の裏部屋は狭く、湿った匂いが濃くなっていく。
南門の詰所には、ミナと呼ばれた少女がいる。
薬屋には、祖母が残る。
荷預かり所には、明日になっても開かれない控えが残る。
役場には、まだ空白の署名欄がある。
空白の署名欄を空けた者は、まだ分からない。
町財務副役の名は近くに見えている。だが、どこまで関わっているのかは見えない。
領主府が何を知っているのかも、クレイアの名がなぜ今も使われたのかも、まだ残っている。
けれど今夜、南門から出るはずだった荷は止まった。
ユイは雨音を聞いていた。
薬屋へ戻る道は、まだそこにある。
けれど、今夜は歩けない。
「靴、また駄目になる」
小さな声だった。
女将は少しだけユイを見たが、何も言わなかった。
サナも、黙っていた。
リオも急かさなかった。
やがて、ユイは布袋の口を結んだ。
祖母が結んだ月根草の袋とは違う、少し不器用な結び目だった。
「リオさん」
「はい」
「夜明け前に出るんですよね」
「はい」
「南門じゃない方から」
「はい」
「分かりました」
その声は、まだ弱かった。
けれど、薬屋へ戻ると言う声ではなかった。
リオは窓の布を静かに下ろした。
明るい町だったルドエンの輪郭が、夜明け前の雨の中で、少しずつぼやけていった。