第1章 欠番の宿場町
1-9 荷の中の名
誰も、すぐには木箱に触れなかった。
赤紐で押さえられた布の下から、浅い息の音だけが聞こえている。風が門の隙間を抜け、灯りの火を小さく揺らした。
若い下働きは荷車の横で固まっていた。年上の男は、木箱ではなく外套の男を見ている。どう動けばいいかを、自分で決める気はないようだった。
外套の男は、まだ手綱を放していない。
門番は箱を見て、次にリオを見た。
リオは木箱の前から動かなかった。サナは控えを抱えたまま、半歩後ろに下がっている。女将はユイの前に立っていた。
ユイは、もう箱を見ていなかった。
自分が見られたことを、遅れて理解している顔だった。
ここで箱を開ければ、荷ではなくなる。
誰もが、それを分かっていた。
門番は、もう一度だけ木箱を見た。
「開けろ。今ここで」
若い下働きは、箱にかけられた赤紐を見たまま動かなかった。年上の男も同じだった。どちらも、開けることそのものより、開けた後に残るものを恐れているように見えた。
門番が若い下働きへ灯りを向けた。
「お前が開けないなら、こちらで開ける」
「門番が勝手に」
「署名のない荷を門から出す方が勝手だ」
門番は槍を壁に立てかけ、片手で赤紐をつかんだ。
リオが静かに言った。
「紐は切らないでください。結び目を残します」
門番はリオを見た。
「面倒だな」
「後で、誰がどのように結んだか確認できます」
「なら、お前がほどけ」
門番は一歩下がった。
リオは膝を折り、赤紐の結び目に指をかけた。強く締められていたが、切らなければ外せないほどではない。荷を運ぶための結び方ではなく、見た目を整えるための結び方だった。
サナが小さく息を呑む。
「荷札、外れかけてる」
リオは手を止めた。
札は布の端に通されていた。表には、赤屋根亭廃材、と書かれている。裏は見えない。
「サナさん、確認を」
サナが近づいた。
若い下働きが一歩出ようとしたが、リオが視線を向けただけで止まった。
サナは札に触れず、灯りの角度を変えた。
「裏に、何かある」
「読めますか」
「一部だけ。南方……預け、かな。あとは擦れてる」
門番が眉を寄せた。
「廃材に預け先がいるのか」
誰も答えなかった。
リオは紐をほどいた。布を押さえていた力がゆるみ、箱の蓋が少し浮いた。中から、浅い呼吸の音が近くなった。
ユイが布袋を握りしめる。
女将が低く言った。
「まだ前に出るんじゃないよ」
「……はい」
ユイは頷いた。
今度は声を出さなかった。
さっき、自分の声が誰に届いたのかを、もう分かっていた。
リオは蓋に手をかけた。
「開けます」
門番が頷いた。
蓋は軽かった。釘は打たれていない。内側には薄い布がかけられ、隙間から空気が入るように片側が少し削られていた。
人を死なせないための細工だった。
人を守るための細工ではない。
布をめくると、少女がいた。
膝を抱えるようにして横向きに詰められ、肩には古い外套がかけられている。顔は汚れ、唇は乾いていた。目は開いているが、灯りをまともに見られない。右手の甲には、薄く引きつれた古い傷があった。
ユイは息を止めた。
けれど、声は出さなかった。
女将の背中の向こうで、布袋を握る手だけが強くなった。
リオは箱の中へ手を入れず、まず少女の顔の前で手を止めた。
「聞こえますか」
少女の目が少しだけ動いた。
「水は飲めますか」
返事はなかった。唇がわずかに動く。
「サナさん、水を」
サナは我に返ったように頷き、腰の水筒を出した。
リオは布を湿らせ、少女の唇に当てた。少女は最初、反応しなかった。二度目で、ほんの少し水を吸った。
門番は箱の中を見て、短く息を吐いた。
「廃材ではないな」
女将が言った。
「見れば分かるよ」
門番は若い下働きたちを見た。
「担架を持ってこい」
若い方は顔を青くしていた。年上の方は目をそらした。
若い下働きは動かなかった。
「聞こえなかったか」
「俺は、中身を知らなかった」
声が震えていた。
門番は表情を変えなかった。
「なら、今知った。担架を持ってこい」
若い男はようやく動いた。
年上の男はまだ立っていた。
リオはその男を見た。
「封を確認した方の名前を知っていますか」
「知らない」
「荷を誰から受け取りましたか」
「上からだ」
「上とは」
男は答えない。
サナが控えを抱え直した。
「町財務副役ですか」
男の目が一瞬だけサナを見た。
サナはそれ以上言わなかった。
リオはその反応を見たが、追わなかった。
今、優先するべきものは箱の中にある。
外套の男が、一歩下がった。
リオはその足音を聞いた。
追える距離だった。
けれど、少女はまだ箱の中にいる。ユイはすでに見られた。サナも女将も、この場にいる。
リオは外套の男を追わなかった。
外套の男は、馬の手綱を取った。急いではいない。逃げる者の足ではなかった。今夜の荷を諦めただけの動きだった。
門番が言った。
「おい、待て」
外套の男は止まらない。
「受け取り名を書けと言った」
「受け取っていない」
「来ていた」
「道を間違えただけだ」
門番は舌打ちした。
「便利な道だな」
外套の男は答えなかった。
馬にまたがる前、彼は一度だけユイを見た。
リオはその視線を遮るように立った。
だが、もう遅かった。
ユイは自分が見られたことを理解していた。布袋を握る手が、白くなっている。
外套の男は暗がりへ下がった。
サナが小さく言った。
「追わないの」
「今は、追いません」
「逃げるよ」
リオは外套の男が去った方角を見た。
「逃げた先があります」
サナは何か言いかけて、やめた。
担架が運ばれてきた。
古い木枠に布を張っただけのものだった。門番と若い下働きが箱の横へ置く。若い男は箱の中を見ないようにしていた。
リオは少女に声をかけた。
「これから箱から出します。痛む場所があれば、手を動かしてください」
少女の指が、ほんの少し動いた。
「分かりました」
リオは外套をずらし、肩と膝の位置を確認した。無理に立たせれば倒れる。担架へ移すには、腕を支える必要がある。
女将が言った。
「私が持つよ」
「腕をお願いします。強く引かないでください」
「分かった」
サナも控えを置いた。
「足は」
「お願いします」
ユイが一歩出かけた。
そこで止まった。
リオは見ずに言った。
「ユイさんは、そこにいてください」
「……はい」
少女を箱から出す時、布の下から小さな包みが落ちた。
サナが拾い上げようとして、止まる。
リオが先に見た。
古い布切れだった。端に、片翼の鳥の刺繍が少しだけ残っている。完全な印ではない。切り取られ、擦れ、何度も握られた跡があった。
女将が低く言った。
「持ってたんだね」
少女の手が、その布へ伸びた。
リオは拾い、少女の手元へ戻した。
「これは、今は預かりません」
少女の指が布を掴んだ。
担架に移されると、少女は目を閉じた。眠ったわけではない。光と人の声から逃げるような閉じ方だった。
門番が詰所の方を示した。
「運ぶぞ」
詰所へ向かうことになった。
ユイは女将の後ろにいた。
前に出るつもりはなかった。
ただ、担架が動いた時、毛布の端から少女の右手が落ちた。
細い指。
甲に残る、古い傷。
半年前、薬を届けた時に見た手だった。
ユイは息を止めた。
声は出さなかった。
南門で、自分の声がどこまで届くかを知ってしまったからだった。
担架は詰所の中へ運ばれた。
壁際に古い机があり、毛布が二枚積まれている。火鉢には小さな炭火が残っていた。門番は担架を床に下ろし、毛布を一枚取った。
「ここで長く置く場所じゃない」
「分かっています」
リオは少女の呼吸を確認した。浅いが、乱れは少し落ち着いている。
「水を少しずつ。食べ物は急がないでください」
門番は若い下働きを見た。
「聞いたか」
若い男は頷いた。
「はい」
「お前はここに残れ」
「俺が?」
「中身を知らなかったんだろう。なら、今から知っておけ」
若い男は何も言えなかった。
サナは詰所の机に控えを広げた。
「南方引き渡し控え、破損控え、差し替え済み処理。全部、ここに写しておく」
リオは頷いた。
「原本は動かさないでください」
「分かってる」
「写しを持って出る必要はありません」
サナは手を止めた。
「持たない方がいい?」
「はい。持つ人間が増えれば、狙われる人間も増えます」
サナは控えを見た。
悔しそうな顔だった。
けれど、すぐに頷いた。
「分かった。順序は覚えてる。札が差し替えられた時間も、元札がないことになっていたことも」
「それで十分です」
女将はユイの肩に手を置いた。
ユイは詰所の入口から中を見ていた。中へ入ろうとはしない。ミナと思われる少女を見ているのに、近づけない。
リオはユイの方へ歩いた。
「ユイさん」
「はい」
「薬屋へは、今すぐ戻せません」
ユイは目を上げた。
「……見られたからですか」
「はい」
「さっきの人に」
「はい」
ユイは布袋を握り直した。
「私、名前を呼びかけました」
「聞こえています」
「最後まで言わなかったのに」
「反応は見られました」
責める声ではなかった。
その方が、ユイにはつらかった。
「私、薬屋に戻れないんですか」
リオはすぐには答えなかった。
詰所の中で、ミナと思われる少女が小さく咳をした。ユイの肩が動く。
「少なくとも、今夜は」
ユイは町の方を見た。
南門の内側には、ルドエンの灯りが並んでいる。昼間は近く見えた灯りが、今は少し遠かった。
「おばあちゃんに、知らせないと」
「知らせます」
「私が行ったら」
「危険が増えます」
ユイは口を閉じた。
分かっていた。
分かっているから、返せなかった。
ミナと思われる少女が、目を少しだけ開いた。
視線は定まらない。だが、入口に立つユイの方へ向こうとしている。
ユイは一歩だけ近づいた。
リオは止めなかった。
「ミナ」
少女の唇が動いた。
音は小さすぎて、最初は誰にも届かなかった。
ユイが膝をつき、距離を保ったまま耳を近づける。
少女はもう一度、かすかに言った。
「……ミナ」
ユイは目を閉じた。
リオはそれ以上、名を聞かなかった。
「水を、もう少し」
サナが布を濡らす。
少女は目を閉じたまま、片翼の鳥の布切れを握っていた。
門番が入口から言った。
「今夜は、このまま出せない」
リオは頷いた。
「はい」
「朝になれば、役場が来る」
「来るでしょう」
「面倒になる」
「すでになっています」
門番は少しだけリオを見た。
「補助員にしては、慣れてるな」
リオは答えなかった。
門番は鼻を鳴らした。
「まあいい。今夜は通さない。それだけだ」
「十分です」
詰所の外に出ると、夜気が冷たかった。
南門の外の道は暗く、外套の男が去った方角はもう見えない。
だが、いなくなったわけではなかった。
リオはそれを言葉にはしなかった。
門の内側には、ルドエンの灯りがある。
灯りは変わらず、町を明るく見せていた。
その灯りの中へ、ユイをそのまま戻すことはできない。
女将が低く言った。
「ここで立ってる場合じゃないね」
リオは頷いた。
「まず、人目から外れます。薬屋へ知らせを出します」
「うちの裏口なら、通りから見えない」
「安全ではありません」
「分かってるよ。見えないだけだ」
「それで十分です。今は」
サナが詰所から出てきた。
「私は」
「サナさんも、今夜は荷預かり所へ戻らないでください」
「……分かった」
「持つものは増やさないでください。覚えている順序だけで十分です」
サナは頷いた。
女将がリオを見た。
「私は?」
「赤屋根亭から廃材は出していない。その一点だけ、必要な時に言ってください」
「それだけでいいのかい」
「それ以上は危険が増えます」
女将は少しだけ黙り、頷いた。
「分かった」
ユイは薬屋の方角を見た。
「リオさん」
「はい」
「明日になれば、戻れますか」
「明日、判断します」
「戻れる場合と、戻れない場合があるんですね」
「はい」
ユイは笑わなかった。
「リオさんは、正直ですね」
「嘘をつく場面ではありません」
「そうですね」
それだけ言って、ユイは黙った。
女将が低く言った。
「うちへ来な。裏口から入れば、表の客には見えない」
リオは女将を見た。
「一時的に、です」
「分かってる。安全な場所なんて言わないよ」
「薬屋へ知らせを出してから、次を判断します」
「それでいい」
ユイはもう一度、薬屋の方角を見た。
「おばあちゃんに」
「知らせます」
リオは言った。
「あなたは、今は戻らないでください」
ユイは頷けなかった。
それでも、足は薬屋の方へ動かなかった。
サナは控えを門番へ戻した。
「原本はここに置く。持ち出さない」
門番が言った。
「最初からそうしろ」
「最初は、そこまで度胸なかった」
「さっきはあっただろ」
「あれは、控え一枚分です」
門番はそれ以上、言わなかった。
その短いやり取りの後、夜はまた静かになった。
ミナと思われる少女は、詰所の中で毛布に包まれている。南方へ出るはずだった荷は止まった。赤屋根亭廃材の札は、机の上に置かれている。
けれど、署名欄はまだ空だった。
誰の名前も、そこには書かれていない。
リオは空欄を見た。
今夜、荷は止まった。
だが、誰がその欄を空けさせたのかは、まだ分からない。
「行きましょう」
リオが言うと、ユイは少し遅れて顔を上げた。
赤屋根亭へ向かうためではない。
まず、人目から外れるためだった。
南門の内側へ戻る道で、ユイは一度だけ振り返った。
詰所の灯りは小さい。
町の灯りの方が、ずっと多い。
それでも今夜、ユイが戻る場所は、まだ決まっていなかった。
薬屋へ戻れないことだけが、先に決まっていた。