第1章 欠番の宿場町
1-8 南門の残り荷
リオは机の上に並んだものを見た。
片翼の鳥の布片、薬屋の古い控え、南方引き渡しの予備札、赤屋根亭の廃材控え。
どれも、それだけなら小さな不一致で済んだ。
だが、今夜の南門に向かうには十分だった。
薬屋の奥は、もう表の店の空気ではなかった。扉は半分だけ開けられ、灯りは外から見えにくい位置へ下げられている。女将は腕を組み、サナは控えを抱えたまま立っていた。ユイは布袋を膝の上に置き、何度も指先で口を結び直している。
「南門の外は、私だけなら通れる」
サナが言った。
「リオさんはどうする」
「領主府補助員として、引き渡し控えの確認をします」
「向こうが止めるよ」
「その間に、見るべきものを見ます」
「力ずくで来たら?」
「荷は出させません」
「相手は複数人かもしれない」
「最初に動いた者を止めます」
サナは一度だけ黙った。
「……本当に補助員かい」
リオは答えなかった。
サナはそれ以上、聞かなかった。
「分かった。私は控えを開く」
女将はユイの布袋を見た。
「それを持ってな。中はただの布だ。両手を空けておくより落ち着く」
「……はい」
「落としたら拾えばいい。声だけは出すんじゃないよ」
ユイは小さく頷いた。
祖母は傷薬と布と紐を小さく包んで、ユイの手元へ置いた。
「灯りは持つな」
「昼じゃないよ」
「手が震えたら、火で分かる」
ユイは返事に詰まった。
祖母はそれ以上、理由を重ねなかった。
「戻ることを一番優先しなさい」
「分かってる」
「分かっていなくても、そうしなさい」
ユイは包みを握った。
リオはそれを見て、短く言った。
「ユイさんは、前に出ないでください。必要がある時だけ、見える位置から確認してください」
「はい」
返事はしたが、声は少し硬かった。
外に出ると、ルドエンの夜は静かだった。
祭りの後片付けを終えた町は、昼間よりも広く見える。灯りは残っているが、人の声は少ない。どこかの戸が閉まる音、遠くの馬の息、風に揺れる吊り看板のかすかな軋みだけが、通りに残っていた。
南門へ向かう道で、女将は一度も大きな声を出さなかった。
サナは控えを胸に抱えて歩いている。ユイは女将の半歩後ろにいた。リオは少し前を歩き、道の角ごとに視線だけを動かした。
南門の近くには、荷車が一台止まっていた。
車輪は門の内側にある。だが、馬の向きは外へ向けられていた。夜間通行の終わり際に、急いで出る荷の形だった。
荷は多くない。
壊れた桶、古い板、布で包んだ小さな束。
最後の一つは、壊れた道具をまとめたものに見えた。
古い布がかけられ、上から紐で押さえられている。札には、赤屋根亭廃材、とあった。
紐の端だけが、赤かった。
門番は灯りの横に立っていた。年配の男で、昼間よりも顔の皺が深く見えた。若い下働きが荷車の脇に立ち、もう一人、年上の男が門の柱にもたれている。
少し離れた場所に、外套の男がいた。
馬の手綱を持っている。
リオはまず門番に向かった。
「夜分に失礼します。領主府補助員です。南方引き渡しの控えを確認します」
門番は目を細めた。
「今か」
「はい」
「もう門を閉める」
「閉じる前に確認します」
サナが一歩前へ出た。
「閉じられたら、後から直した場所も触った人間も分からなくなる」
門番はサナを見た。
「荷預かり所の」
「はい」
「お前も来たのか」
「控えの件です」
若い下働きが口を挟んだ。
「急ぎの荷です。南で受け取りがある」
門番は荷車の札を見た。
「赤屋根亭廃材」
女将が低く言った。
「うちから廃材なんて出してないよ」
若い下働きは女将を見た。
「宿の者ですか」
「見れば分かるだろ」
女将の声は荒くなかった。けれど、退く気配はなかった。
リオは札を見た。
「廃材名義は宿側が否認しています。署名欄は」
サナが控えを開く。
「空欄です」
「受け取り側の氏名は」
「なし」
「元札は」
「差し替え済み処理ですが、元札がないことになっています」
門番が若い下働きを見た。
「署名欄が空だ」
「後で入れることになっている」
「門を出る前に入れるものだ」
「責任は役場が持つ」
「なら、役場の名を書け」
若い下働きは黙った。
年上の男が横から言った。
「受け取りの予定がある。遅れれば困る」
「誰が困る」
門番が聞いた。
男は答えなかった。
外套の男が、初めて口を開いた。
「通すだけでいい」
門番はそちらを見た。
「通すために名前を書く」
「後で済む」
「門を出た荷の後始末は、門ではできない」
外套の男は何も言わなかった。
その時、布をかけられた木箱の中から、小さな音がした。
木と木が触れた音ではなかった。
布の下で、浅く息を吸うような音。
サナの手が止まった。
ユイの指が、布袋の口を強く握った。
リオは木箱へ近づいた。
若い下働きが慌てて前に出る。
「触らないでください」
「今、箱の中から人の咳に近い音がしました」
「古い板がずれただけです」
「板は咳をしません」
門番の目が細くなった。
女将はユイの前に体を入れた。
「下がってな」
ユイは頷いた。けれど、視線は箱から離れなかった。
箱の中から、また浅い音がした。
咳に近い。
けれど、声にも近かった。
ユイの唇がわずかに開いた。
「……ミ」
そこまで出かけて、ユイは自分で口を閉じた。
女将が低く言った。
「ユイ」
ユイは頷いた。
けれど、遅かった。
外套の男が、木箱ではなくユイを見ていた。
リオはその視線を見た。
男は、箱の中身を見ているのではない。
箱の中身に反応した者を見ている。
荷の異常ではなく、それを知っている者の顔を覚えようとしていた。
ユイはまだ、それに気づいていない。
ただ、布袋を握る手だけが白くなっていた。
リオは一歩、ユイの前へ出た。
「その荷は、ここで確認します」
若い下働きが顔をこわばらせた。
「そんな権限は」
門番が低く言った。
「署名のない荷は通せない」
「責任は役場が」
「役場の名を書けと言った」
若い下働きは黙った。
年上の男が外套の男を見た。
外套の男は、まだ手綱を握っている。門の外へ向かう道は開いていた。だが、荷車は門番の前で止まっている。
門番は一歩、荷車の前へ出た。
「この荷は、今は出せない。詰所へ移す」
「受け取り先がある」
外套の男が言った。
「名前を書け」
門番は繰り返した。
外套の男は答えなかった。
サナは控えを抱え直した。指先は震えていたが、目は控えから離していない。
「南方引き渡し。差し替え処理。赤紐。赤屋根亭廃材。署名欄空白」
サナの声は小さかった。
自分に確認する声だった。
リオは木箱の前から動かなかった。
女将はユイを下がらせた。ユイはようやく、自分が見られたことに気づいたらしい。外套の男の方を見ようとして、途中で視線を落とした。
箱の中から、浅い息の音が続いている。
門番が若い下働きへ言った。
「降ろせ」
「でも」
「降ろせ」
若い下働きは動かなかった。
外套の男が手綱を少し引いた。
「荷を置け」
若い下働きの肩が揺れる。
「でも」
「置け」
二度目は短かった。
その声は、撤退ではなかった。
次の手に移る声だった。
リオはその変化を聞き取った。
今夜の荷を諦めても、終わるつもりはない。
門番は灯りを持ち上げた。
「ここで確認する」
外套の男の目が、一瞬だけユイへ戻った。
今度は、ユイもそれに気づいた。
リオは視線を遮るように立った。
「ユイさん、下がってください」
「……はい」
声は小さかった。
夜の南門で、誰もすぐには動かなかった。
赤紐で押さえられた布の下から、浅い息の音だけが聞こえている。
それが聞こえてしまった以上、もう誰も、それをただの廃材とは呼べなかった。
リオは木箱の前に立ったまま、門番へ言った。
「この場で開けます」
門番は、もう一度だけ木箱を見た。
「開けろ。今ここで」