FIELD WARDEN

第1章 欠番の宿場町

1-7 薬屋の奥

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薬屋の奥は、表の店よりも匂いが濃かった。

扉が閉まると、通りの音が遠くなった。棚には乾いた根、砕いた葉、油瓶、古い布が並んでいる。火を使った後の、かすかな焦げた匂いもあった。

ユイの祖母は、まずユイの靴を見た。

泥がついている。

次に手を見た。

油灯を握っていた指が、少し白くなっている。

「座りなさい」

「大丈夫」

「座りなさい」

ユイは言い返さなかった。

赤屋根亭の女将が、壁際の椅子を引いた。大きな音は立てない。けれど、迷いのない動きだった。

「水を持ってくる」

「私が」

「座ってな」

女将はユイを一度だけ見て、奥へ入った。

リオは机の前で立ち止まった。

机の上には、乾いた薬草を選り分ける浅い皿が三つ置かれていた。祖母はその皿を横へ寄せ、空いた場所を作った。

「それを」

リオは布包みを机に置いた。

「石灰倉の中にありました。直接は触れていません」

「開けていいかい」

「はい」

祖母はすぐには手を出さなかった。

薬屋で使う細い木の匙を取り、包みの端をめくった。

粗布の切れ端が現れた。

端に残る刺繍。

片翼の鳥。

女将が水差しと木杯を持って戻ってきた。机の上の印を見ると、足を止めた。

「……それか」

祖母は布を見たまま言った。

「クレイアの印だよ」

ユイは椅子に座ったまま、顔を上げた。

「本当に?」

「そうだ」

「祖母の薬草箱にあった印も?」

「同じだ」

「どうして、うちに」

祖母は木の匙を置いた。

「昔、クレイア家の薬草庫から分けてもらった箱だ。捨てずに使っていた」

「薪にしたって言ってた」

「壊れたからね」

「印のことは、言わなかった」

「言わないままにした」

ユイは口を開きかけたが、何も言わなかった。

女将が木杯をユイの前に置く。

「飲みな。喉が乾いてる」

ユイは両手で杯を持った。

リオは布片を見た。

「この印は、クレイア家の家印と見てよろしいですか」

祖母は頷いた。

「正式な紋章かどうかは知らない。けど、町ではそう見ていた。薬箱、穀物袋、古道の杭。そういうものについていた」

「クレイア家は、町に関わりの深い家だったのですね」

女将が答えた。

「深いよ。南門を直したのも、古い水害のあとに穀倉を開けたのも、あの家だって聞いてる」

「聞いている、ということは」

「私が子どもの頃には、もうその名を大きな声で出す人は減っていた」

女将は水差しを机に置いた。

「でも、年寄りは覚えてる。門の石に名が残ってる時代を見てるからね」

祖母は粗布の端を見つめた。

「薬草庫もそうだ。冬に熱を出した子が多い年、クレイア家が薬草を出した。うちはその時のつながりが残っていた」

「クレイア預地は、薬草庫と関係がありましたか」

「ある」

祖母の返事は短かった。

「北東古道の先に、井戸と乾燥小屋があった。けが人や逃げてきた者を一時的に置く場所でもあった。名前をすぐに出せない者もいた」

「保護地ですか」

「昔は、そうだった」

ユイが杯を置いた。

「じゃあ、クレイア村って、本当は村じゃないの?」

祖母はユイを見た。

「村じゃない。少なくとも、うちでそう呼んだことはない」

女将が続けた。

「旅人や避難してきた人には、分かりやすく村みたいに言うことはあったかもしれない。でも、役場の正式な村じゃない。あそこはクレイア預地だよ」

「じゃあ、どうして記録には村って」

女将が戸口を見てから、声を落とした。

「村と書けば、土地の由来を調べずに済む。預地と書けば、誰の土地だったかを見なきゃならない」

「誰が、そう書いたの」

「役場だろうね」

祖母が続けた。

「領主府へ出す書類もある」

ユイの手が、杯の縁を強く握った。

「クレイア家は、悪い家だったの?」

祖母はすぐには答えなかった。

「少なくとも、町を助けたことはある」

「じゃあ、どうして名前を出しちゃいけないの」

「今の役場が、その名を嫌うからだ」

「それだけ?」

「役場で書類を止められる。薬代も、荷も、通行も」

ユイは黙った。

それは、町で暮らす者には十分な理由だった。

リオは質問を変えた。

「半年前、ユイさんが薬を届けた少女について確認させてください」

ユイは机の布片を見た。

「半年前、私が薬を届けた子も、この印の布を持ってた」

祖母は頷いた。

「持っていた」

「おばあちゃんは、それを知っていて、私に届けさせたの?」

「そうだ」

「名前を聞くなって言ったのも?」

「私だ」

ユイはしばらく祖母を見ていた。

「どうして」

祖母はすぐに答えなかった。

「お前に、その子の名を覚えさせたくなかった」

「名前を知らなければ、安全だと思ったの?」

「そう思った」

「その子がいなくなった時、誰だったのかも言えなくなるのに?」

祖母は目を逸らさなかった。

「そこまで考えなかった」

ユイは両手を膝の上で握った。

責める言葉はあった。

けれど、声にならなかった。

リオは布片の端に残る刺繍を見た。

「その少女の名を、聞いたことはありますか」

祖母は少しだけ黙った。

「ミナ」

ユイの指が止まった。

「ミナ……」

「その時、そう呼ばれていた」

「ミナ・ロウ?」

「私は、ロウとは呼んでいない」

女将が低く言った。

「外へ出す時の名だったんだろうね」

リオは女将を見た。

「ロウという名が、ですか」

「昔は、名を変えなきゃ泊められない客がいた。今は、名を変えれば追いにくくなる」

「誰がどこへ行ったかを、追いにくくするためですか」

「そうだよ」

女将の声は固かった。

リオは祖母へ向き直った。

「ミナという少女は、クレイア家に関係する人物ですか」

「血筋までは知らない」

「では、なぜクレイアの印を」

「預けられた時から持っていた」

「誰に預けられたのですか」

祖母は首を横に振った。

「直接は知らない。薬を頼みに来たのは、サナじゃない。女将でもない。役場の下働きだった」

女将の眉がわずかに動いた。

「誰だい」

「名前は聞いてない。若い男だった。薬代は置いていった」

「薬代」

リオが繰り返した。

祖母は小さく頷いた。

「銅貨で。多すぎた」

「なぜ受け取ったのですか」

「薬が必要だったからだ」

祖母の声は変わらなかった。

けれど、ユイはその声を聞いて俯いた。

女将が静かに言った。

「ユイ」

「大丈夫です」

「大丈夫な顔じゃない」

「大丈夫じゃないです」

部屋の空気が、少しだけ重くなった。

リオは机に置かれた布片を見た。

「ミナ・ロウという名は、配給控え、通行控え、巡礼者台帳に確認されています。出身地はいずれもクレイア村です」

祖母は目を閉じた。

「ロウ……」

「ご存じですか」

「聞いたことはある。外へ出す時の名だと」

「外へ出す時」

「本名を出せない者に、別の名をつけることがあった。昔は、追手から隠すためだった」

女将が苦い顔をした。

「今は、追う人間を困らせるために使われる」

リオは女将を見た。

「ミナ・ロウは、そのための名である可能性があります」

「そうだろうね」

女将は短く言った。

ユイは祖母を見た。

「本当の名前は?」

祖母は答えなかった。

薬屋の奥で、小さな油灯の火が揺れている。昼なのに、奥の棚の陰は暗い。瓶の中の薬草が、火の色を受けて静かに光った。

祖母は机の下から、古い木箱を引き出した。

薬包紙や古い紐、欠けた匙、使えなくなった小瓶が入っている。祖母はその奥から、折り畳まれた紙を一枚出した。

新しい記録ではない。

薬屋の控えだった。

「残していたのですか」

リオが聞くと、祖母は首を横に振った。

「捨て忘れた」

紙には薬の種類と日付だけが並んでいた。名前を書く欄はない。代わりに、端に小さく印が描かれている。

片翼の鳥。

その横に、細い文字があった。

ミナ。

姓は書かれていない。

ユイは紙を見つめた。

「ミナ・クレイア……?」

祖母は、今度は止めなかった。

「私は、一度だけ、そう聞いた」

「誰から」

「薬を頼みに来た男じゃない。その前に、一度だけ、あの子自身が言った」

「私には言わなかった」

「言わせなかった」

ユイの表情が歪んだ。

祖母は続けた。

「お前に名前を覚えさせたくなかった」

「私は、そんなに頼りなかった?」

「そうじゃない」

「じゃあ、どうして」

「お前が名前を知れば、誰かに聞かれた時に答えられてしまう」

「私が言うと思ったの?」

「子どもに隠し通せる話じゃないと思った」

ユイは祖母を睨むように見た。

「それで、私は何も知らないまま薬だけ届けたの?」

祖母は静かに頷いた。

「そうだ」

女将が息を吐いた。

「おばあさん」

「いい」

祖母は紙を机に置いた。

「今は、隠す方が悪い」

リオは紙に触れず、視線だけで確認した。

「この控えは、半年前の薬届けに関するものですか」

「そうだ」

「写しを取らせていただけますか。原本はここに置いたままで構いません」

「写しならいい」

「ありがとうございます」

その時、店の表で戸が叩かれた。

三人が動きを止めた。

女将がすぐに立ち、表へ向かった。

「私が出る」

祖母は紙を木箱の中へ戻さず、裏返しにした。ユイは椅子から立ち上がりかけたが、祖母が短く言った。

「座っていなさい」

「でも」

「今は座る」

ユイは座った。

女将が表の戸を開ける音がした。

低い声ではない。

女の声だった。

「サナさん」

女将の声が少し下がった。

しばらくして、サナが奥へ入ってきた。

荷預かり所で見た時より、顔色が悪い。袖には片付けでついた灰が残っている。手には細い木札を一枚持っていた。

「赤屋根亭に行ったら、女将がいなかった。薬屋だと思った」

サナはユイを見て、それからリオを見た。

「古道へ行ったのか」

「はい」

リオが答えた。

「石灰倉を確認しました」

サナは目を閉じた。

「馬鹿なことを」

「すみません」

「謝る相手が違う」

サナはそう言ったが、声は強くなかった。

リオは机の上の布片を示した。

「片翼の鳥の印が残る粗布片を確認しました」

サナはそれを見た。

「やっぱりか」

「ご存じでしたか」

「見たことはある。荷預かり所で」

サナは持っていた木札を机に置いた。

「番号十七とは別の札だ。破損控えに残っていた」

札の端には赤い紐の跡があった。

文字は薄い。

だが、南方、引渡、という二語は読めた。

「これは」

リオが聞いた。

「南へ出す荷の予備札だ。昨日の夕方に一度、差し替えがあった」

「差し替え」

「本来なら、差し替えには元札と新札の両方を残す。今回は元札がないことになっていた」

「番号十七ですか」

サナは頷いた。

「たぶんね」

ユイが立ち上がった。

「たぶん?」

「私は元札を見ていない。見たのは、削られた札だけだ」

「でも、分かってたんでしょ」

サナはユイを見た。

「全部は知らない」

「全部じゃなくても」

「知っていたことはある」

サナは逃げなかった。

「赤紐の荷は、南方引き渡し。保護預かり名目。荷主は書かれないことがある。そういう扱いは前からあった」

「人だって分かってた?」

サナはすぐには答えなかった。

「荷ではないと思ったことはある」

ユイは言葉を失った。

サナの顔は固い。

「でも、開ける権限はない。南方引き渡しは役場の印があれば通る。荷預かり所は札と数を合わせるだけだ」

「だから何もしなかったの?」

「できなかった」

「できなかったのと、しなかったのは違う」

「そうだよ」

サナの声が初めて少し荒れた。

「違う。だから、今ここに来た」

部屋が静かになった。

リオはサナの木札を見た。

「サナさん。今夜、動きがありますか」

サナはリオを見る。

「なぜ分かる」

「南方引き渡しの控えが、まだ閉じられていない可能性があるからです。男たちの会話では、礼金の残りは渡してから、と言っていました」

祖母の顔がわずかに変わった。

女将が低く言った。

「そこまで聞いたのかい」

「はい」

リオは必要な部分だけを話した。

「女一人分なら、まだ南が受ける。礼金は半分済んでいる。残りは渡してから。保護預かりという話だが、紙の上ではそうなっているだけ。そう聞きました」

誰もすぐには声を出さなかった。

ユイは机の端に手を置いた。

指が震えている。

「女一人分って」

リオは答えなかった。

断定するには、まだ足りない。

サナが低く言った。

「今夜、南門で小さい引き渡しがある。残り荷を出すことになっている」

「残り荷」

「空き箱、古い布、壊れた道具、宿から出た廃材。そういう名目だ」

女将の表情が変わった。

「赤屋根亭の廃材なんて出してないよ」

「分かってる」

サナは女将を見た。

「だから来た」

リオは確認する。

「南門ですか」

「南門の外。古い検問小屋の手前。夜半前」

「誰が関与していますか」

「役場の下働きが二人。南から来る受け取りが一人か二人。名前は控えに出ない」

「町財務副役は」

サナは答えなかった。

女将が、短く息を吐いた。

ユイはゆっくり座り直した。

「ミナは、まだ町にいるんですか」

祖母は目を閉じた。

女将はサナを見た。

サナは歯を食いしばった。

「分からない」

「でも、今夜動くかもしれない」

「そうだ」

「半年前の子かもしれない」

「そうだ」

ユイは自分の手を見た。

半年前、薬包みを持った手。

名前を聞かなかった手。

今日、灯りを持った手。

同じ手だった。

「私、顔を見ています」

リオがユイを見る。

「はい」

「声も覚えています」

「はい」

「もし、ミナがその子なら、私は分かるかもしれません」

祖母が短く言った。

「だから危ない」

ユイは祖母を見た。

「分かってる」

「分かっていない」

「分かってる」

祖母はそれ以上言わなかった。

言い争いにする場面ではないと分かっていた。

リオは静かに口を開いた。

「ユイさんが見た少女とミナ・ロウが同一人物である可能性は高くなりました。ただし、まだ確認が必要です」

「確認って、見に行くってことですか」

ユイの声は小さかった。

「今は、そう考えています」

女将が腕を組んだ。

「領主府の補助員が、夜の南門に何の用だい」

リオは女将を見た。

「記録の確認です」

「それで通ると思うかい」

「通らない可能性が高いです」

「正直だね」

「はい」

サナが机の上の木札を指で押さえた。

「私が行けば、南方引き渡しの控えを見る理由はある」

女将がすぐに言った。

「サナ」

「分かってる」

「分かってる顔じゃないよ」

「今さら戻れない」

祖母が短く言った。

「戻ることを一番優先しなさい」

サナは苦く笑った。

「薬屋のおばあさんに言われると効くね」

「冗談にしない」

「悪かった」

リオはサナを見た。

「危険があります」

「もうある」

サナの返事は短かった。

ユイが立ち上がった。

「私も行きます」

「駄目だ」

祖母が即座に言った。

「でも、私が顔を」

「駄目だ」

「おばあちゃん」

「お前が見れば、向こうもお前を見る」

ユイは言葉を止めた。

祖母の声は低かった。

「半年前、お前を知らないままにしておけば守れると思った。間違っていた。でも、見せに行くことが正しいとは言わない」

ユイは唇を結んだ。

女将が静かに言った。

「ユイ。今は座ってな」

「でも」

「動くなら、動き方を決めてからだ」

ユイは座らなかった。

けれど、それ以上進もうともしなかった。

リオは机の上を見た。

片翼の鳥の布片。

薬屋の古い控え。

南方引き渡しの予備札。

半年前の薬。

今夜の南門。

それでも、まだ一つ足りない。

ミナ本人の確認。

そして、今夜の引き渡しを止めるための理由。

リオは顔を上げた。

「まず、情報を分けます」

全員がリオを見た。

「サナさんは、今夜の南方引き渡しの時刻と扱いを確認してください。ただし一人で近づきすぎないでください」

サナは頷いた。

「女将さんは、赤屋根亭の名で出される荷がないことを確認できるものを用意できますか」

「宿の廃材控えならある。今日は出してない」

「お願いします」

「ユイさんのお祖母さま」

「何だい」

「半年前の薬の控えの写しを取らせてください。原本はここに置いたままで構いません」

祖母は頷いた。

「ユイさん」

ユイの背が少し伸びた。

「あなたは、半年前の少女の特徴を、思い出せる範囲で話してください。今すぐ外には出ません」

「……はい」

「顔、声、傷、身につけていたもの。覚えていることだけで構いません。分からないことは、分からないままでいいです」

ユイは小さく頷いた。

祖母はその横顔を見ていた。

リオは続けた。

「この場にいる方全員にお願いします。今夜のことを、表で話さないでください。誰が関与しているか、まだ分かりません」

女将が戸口を見た。

「店は閉めるよ」

祖母はすぐに言った。

「閉めない。閉めたら目立つ」

女将は少しだけ考え、頷いた。

「じゃあ、半分だけ開ける。薬屋なら、そういう日もある」

「そうして」

サナは木札を懐に戻そうとして、リオを見た。

「これは持っていた方がいいかい」

「今はサナさんが持っていてください。元の場所に戻す必要はありません」

「分かった」

外では、町の音がいつも通りに続いていた。

誰かが薬屋の前を通り、別の誰かが市場の方で笑った。

薬屋の奥だけが、別の時間に沈んでいた。

ユイは自分の手を見ていた。

「私、あの子に薬を渡した時、早く帰らなきゃって思ってました」

誰も口を挟まなかった。

「暗くなる前に戻れって言われてたから。名前を聞くなって言われてたから。だから、ちゃんと言われた通りにしました」

祖母は目を伏せた。

ユイは続けた。

「ちゃんとしたのに、間違ってたかもしれない」

リオは静かに言った。

「今から確認できます」

ユイはリオを見た。

慰めではない。

許しでもない。

ただ、次にできることを示す言葉だった。

ユイはゆっくり息を吸った。

「はい」

祖母が古い控えを机の中央へ出した。

女将が戸を半分だけ閉めに行く。

サナが南方引き渡しの札を握り直す。

リオは布片をもう一度包み直した。

油灯の火は小さい。

けれど、消えてはいなかった。