第1章 欠番の宿場町
1-6 灯を持つ者
薬屋は、広場から一本外れた細い通りにあった。
赤屋根亭や荷預かり所ほど人の出入りは多くない。けれど、扉の前には乾かした草の束が吊るされ、窓辺には小さな瓶が並んでいる。瓶の中身は、琥珀色の油、黒い粒、白く乾いた根、細く砕いた葉。
店の前まで来ると、薬草と古い木箱の匂いがした。
リオは扉の前で足を止めた。
中は見ないように言われている。
だから、見なかった。
ただ、扉の向こうから聞こえる声だけは、止めようがなかった。
「北東へ行くのかい」
年配の女の声だった。
「入口まで。薬草を見に行くだけ」
ユイの声が答える。
「薬草なら南の湿地で足りる」
「月根草は北東の方がいいの」
「今朝、月根草は受け取っていただろう」
短い沈黙があった。
ユイは嘘がうまくない。
少なくとも、家の中ではそうらしい。
「……道を見に行くの」
「誰と」
「リオさんと」
「領主府の補助員かい」
「そう」
「何を調べている人だい」
「分からない」
「分からない人を、あの道へ連れていくのかい」
「悪い人ではないと思う」
「そこじゃない」
ユイは黙った。
棚のどこかで、小瓶が触れ合う音がした。
「橋の先へは行かない」
「入口までって言ったでしょ」
「なら、橋の手前までだ」
「橋の手前は入口じゃない」
「戻れる場所までだよ」
ユイはすぐには返事をしなかった。
「返事」
「……分かった」
「灯りを持っていきなさい」
「昼だよ」
「持っていきなさい」
「……分かった」
そこで扉が開いた。
ユイは籠を腕に下げて出てきた。昨日までの町用の靴ではなく、革紐で足首を締める古い靴に履き替えている。籠の中には小さな刃物、布、空の薬瓶、縄、乾いたパンが入っていた。
リオを見ると、少しだけ気まずそうな顔をした。
「待ちました?」
「少しだけ」
「店の中、見ました?」
「見ていません」
「聞こえました?」
リオは短く間を置いた。
「少しだけ」
ユイは肩を落とした。
「聞こえたんですね」
「はい」
「じゃあ、見てないだけですね」
「そうなります」
ユイは小さく笑った。
けれど、その笑いはすぐに消えた。
扉の奥から、年配の女が顔を出した。
白髪を後ろでまとめた、小柄な女だった。背は低いが、目だけは鋭い。薬草を扱う者の手らしく、指先には細かな傷と色移りがある。
「あなたがリオさんかい」
「はい。リオ・アスターです」
リオは頭を下げた。
「ユイを橋の先へ連れていかないでおくれ」
「入口まで案内していただく予定です」
「予定と違うことをしないでおくれ」
「はい」
女はリオをしばらく見ていた。
顔立ちに驚く様子はない。
あるいは、驚くより先に、別のことを見ている顔だった。
「クレイアの名を探してるんだってね」
ユイが息を呑んだ。
「おばあちゃん」
女はユイを見なかった。
リオは答えた。
「はい」
「その名を出すなら、気をつけなさい」
「承知しました」
女はそれ以上、言葉を重ねなかった。
「ユイ」
「はい」
「灯り」
「持った」
「布」
「入れた」
「傷薬」
「入れた」
「戻ること」
ユイは少しだけ顔を上げた。
「分かってる」
「それを一番優先しなさい」
「……分かった」
祖母はそれでようやく扉の内側へ戻った。
ユイは籠の中を一度確かめ、小さな油灯を布で包み直した。
「行きましょう」
「よろしいのですか」
「橋の手前までです」
「はい」
「それ以上は、状況を見て」
リオはユイを見た。
ユイはすぐに言い直した。
「……橋の手前までです」
「分かりました」
二人は薬屋の前を離れた。
北東古道へ向かう道は、広場の賑わいから少しずつ外れていく。
赤屋根亭の裏を過ぎ、荷預かり所の軒を離れ、麦街道へ向かう人の流れから逸れる。道幅は狭くなり、石畳の隙間に草が増えた。家々の屋根も低くなり、窓に吊るされた薬草や洗濯物が、風に揺れている。
ユイはいつもの早足ではなかった。
町の中では迷いなく進んでいた足が、北東へ向かうにつれて少しずつ慎重になる。
「この道は、普段使われないのですか」
リオが聞くと、ユイは前を見たまま答えた。
「まったく使わないわけじゃありません。薬草を採る人とか、猟師とか、古い石を取りに行く人とか」
「石」
「石灰倉があったって聞きます。今はほとんど崩れてますけど」
「見たことは?」
「入口から少しだけ」
「奥は」
「行ってません」
答えは早かった。
だが、嘘ではない。
本当に奥までは行っていない声だった。
町の最後の家を過ぎると、小さな水路が見えた。
水は浅く、石の間を細く流れている。橋と呼ぶには簡素な板が三枚渡されていた。板は古く、端が少し沈んでいる。
ユイは橋の手前で足を止めた。
「ここまでです」
「ここが入口ですか」
「祖母の言い方では」
「ユイさんの言い方では」
ユイは橋の向こうを見た。
「入口は、この先です」
水路の向こうには、林へ続く細い道がある。枝が道の上へ伸び、昼の光をまだらにしていた。
リオは橋を見る。
板の表面には、最近ついた泥があった。
乾ききっていない。
「昨日か今朝、誰かが通っています」
リオが言うと、ユイは橋を見た。
「薬草採りかもしれません」
「そうですね」
「そうじゃないかもしれませんけど」
ユイは小さく言い、すぐに口を閉じた。
リオは橋の手前で膝を折った。
板に残った泥は、町の石畳の泥より濃い。北東古道の土だろう。だが、板の端には、車輪ではなく何かを引いたような細い跡があった。
荷車そのものは通れない。
人が担いだか、引きずったか。
リオは立ち上がった。
「少しだけ、向こう側を確認します」
ユイは黙った。
「ここで待っていてください」
「橋の手前で?」
「はい」
「ここで一人で待っていたら、かえって目立ちます」
リオはユイを見た。
ユイは籠を抱え直した。
「薬草を採りに来たなら、少しは道に入らないと変です」
「しかし、約束は」
「橋を渡って、入口までです。そこで戻ります」
リオは少しだけ沈黙した。
「分かりました。入口までです」
「はい」
二人は橋を渡った。
板は少し沈んだが、折れはしなかった。ユイの籠の中で小瓶が小さく鳴った。
古道は林の中へ入っていた。
木々は高くない。だが、枝が道の上へ伸び、昼の光を細かく分けている。足元は湿っていて、落ち葉が黒く重なっていた。古い石畳らしいものがところどころ見えるが、半分は土に沈んでいる。
道の脇には、細い杭が立っていた。
上部は割れ、文字はほとんど読めない。
リオは膝を折り、杭の表面を見た。
墨ではない。
焼き印だった。
かすかに残った線は、鳥の翼のようにも見える。
「これ」
ユイが後ろから覗き込んだ。
「知っていますか」
「昔、祖母が同じ印の箱を持っていました。薬草を乾かす箱です」
「今もありますか」
「もうありません。壊れたから、薪にしたって言っていました」
ユイは杭から目を離した。
「でも、たぶん同じ印です」
「クレイア家の印かもしれません」
「クレイア家」
ユイはその名を、口の中で確かめるように言った。
「町では、あまり聞かない名前です」
「年配の方は知っているようです」
「たぶん、知っています」
「ユイさんは」
「名前だけなら。昔の偉い家、くらいです」
「よい印象ですか」
ユイはすぐには答えなかった。
足元の落ち葉を靴先で少し避ける。
「悪く言う人は、あまりいません。でも、はっきり良く言う人もいません」
「なぜでしょう」
「言わない方がいい名前って、町にはあります」
その答えは、ユイ自身のものというより、暮らしてきた町から覚えたものだった。
リオは立ち上がった。
「入口はここまでですか」
ユイは少し先を見た。
「もう少し行くと、古い石壁があります。そこまでが、私の知っている入口です」
「では、そこまで」
「そこまでです」
二人は古道を進んだ。
少し行くと、林の中に低い石壁が現れた。
壁といっても、ほとんど崩れている。石灰で固められていたらしい白い跡が、苔の下に残っていた。奥には井戸がある。木蓋は割れ、上に落ち葉が積もっていた。
その隣に、小屋の跡が二つ。
屋根はない。
柱だけが残り、乾いた草の匂いがかすかに残っている。
薬草乾燥小屋。
旧管理地台帳にあった記載と一致する。
リオは周囲を見渡した。
人が住んでいる様子はない。
だが、完全に捨てられているわけでもない。
井戸の近くの草が、最近踏まれている。小屋の柱には、古い縄とは別に、新しい麻紐の切れ端が残っていた。石灰倉らしい低い建物の入口には、土をかぶせた跡がある。
「使われていますね」
リオが言うと、ユイは息を詰めた。
「誰かが?」
「少なくとも、最近ここに来た人がいます」
「薬草採りかもしれません」
「その可能性はあります」
リオは小屋の柱に近づいた。
麻紐の切れ端。
赤く染めた紐だった。
昨日、番号十七の木札についていた紐とよく似ている。
リオは触れずに見た。
「ユイさん」
「はい」
「ここへ来る薬草採りは、赤い紐を使いますか」
「使いません」
答えはすぐだった。
今度は早すぎない。
生活の中で知っていることを答えただけだった。
「薬草は布袋か籠です。束ねるなら麻紐だけ。色つきの紐は、荷預かり所とか、役場とか、祭りの仕分けくらいです」
「ありがとうございます」
リオは周囲を確認した。
石灰倉の入口に、細い擦れ跡がある。
何かを引きずった跡。
木箱ではない。
布袋でもない。
重さのある長いものを、低く引いた跡だった。
昨日の荷車の床板に残っていた擦れ跡と、幅が近い。
ユイも地面の跡に気づいた。
「何かを引きずった跡ですか」
「そう見えます」
「荷車は、ここまで入れませんよね」
「橋を越えられません」
ユイは石灰倉の入口を見た。
「じゃあ、誰かがここまで運んだんですか」
「その可能性があります」
石灰倉の入口には、古い扉が倒れかけていた。隙間から中が見える。暗い。昼なのに、奥は光が届いていない。
ユイは籠の中から油灯を取り出した。
「使いますか」
「いいのですか」
「持てと言われたので」
「では、お願いします」
ユイは火を入れる準備をした。
手つきは少し緊張していたが、慣れている。薬屋で小さな火を扱うことがあるのだろう。油灯に火が入り、蓋の内側で淡く揺れた。
リオは倒れた扉の隙間から中へ入った。
「ユイさんは外で待っていてください」
「そう言うと思いました」
「危険かもしれません」
「それも言うと思いました」
「では」
「外で待ちます」
ユイは灯りをリオへ渡そうとした。
リオは受け取らなかった。
「灯りを持っていてください。入口から中を照らしていただけますか」
「それなら、外です」
「はい」
ユイは少しだけ納得したように頷いた。
石灰倉の中は、ひんやりしていた。
壁に残った白い粉が、灯りに淡く浮かぶ。床には古い石片と木片が散らばっている。その奥に、最近動かされた跡があった。
土の色が違う。
乾いた白い粉の上に、濃い泥が落ちている。
泥は北東古道のものではない。
昨日、荷車の車輪についていた濃い泥と似ていた。
リオは奥へ進んだ。
壁際に、小さな布片が落ちている。
粗布。
端に、古い刺繍があった。
鳥の片翼。
右側が欠けている。
リオは触れずに、しばらく見た。
クレイア家の印。
杭に残っていた翼の形。
そして、昨日の番号十七の木札。
名前は削られていた。
だが、印は削られずに残ることがある。
「何かありましたか」
入口からユイの声がした。
「布片があります」
「布?」
「古い刺繍のあるものです」
「見ても?」
「中には入らないでください」
「入口から見ます」
ユイは灯りを少し高くした。
光が奥まで届く。
布片の刺繍が、わずかに浮かんだ。
ユイの息が止まった。
本当に小さな音だった。
それでも、リオには分かった。
「知っていますか」
リオは聞いた。
ユイはすぐには答えなかった。
「……同じ印を、見たことがあります」
「薬草箱ですか」
「それも。でも、別のところで」
「どこで」
ユイは唇を結んだ。
油灯の火が揺れている。
「古い石灰小屋の近くで、女の子に薬を渡したことがあります」
リオは動かなかった。
「いつですか」
「半年くらい前です」
半年前。
町財務副役が旧附属地記録を閲覧した頃。
リオは言葉を待った。
ユイはゆっくり続けた。
「祖母に頼まれて、熱冷ましと傷薬を持っていきました。相手の名前は聞くなって言われました。聞かないで、置いて帰ってこいって」
「会ったのですか」
「はい」
「どのような人でしたか」
ユイは灯りを持つ手に力を入れた。
「私より少し年下に見えました。痩せていて、手に傷がありました。髪は布で隠していて、顔もあまり見えませんでした。でも、声は覚えています」
「名前は」
「聞いていません」
「その時、その印を?」
「包み布にありました。片翼の鳥みたいな印です」
ユイは奥の布片を見つめている。
「祖母に、誰かと聞いたら、昔の預かりだと言われました」
「昔の預かり」
「はい」
ユイの声が少し震えた。
「私、その子はどこかの奉公先へ行ったのだと思ってました。病気が治って、町を出たんだと思ってました」
「そう聞いたのですか」
「はっきりとは。でも、そういう話し方でした」
「誰が」
「祖母と、サナおばさんと、女将さんです。みんな詳しくは言わなかった」
ユイはそこで黙った。
林の外で、鳥が鳴いた。
町の音はもう届かない。
リオは石灰倉の奥を確認した。
床には、布片のほかに、乾いたパンの欠片、空になった薬瓶、折れた木片がある。新しいものではないが、何年も前のものでもない。
ここは、ただの廃墟ではなかった。
誰かが、一時的に使っていた。
そしてその誰かは、町の何人かに知られていた。
「ユイさん」
「はい」
「その女の子を、もう一度見たことはありますか」
ユイは首を横に振った。
「ありません」
「昨日の灯祭では」
「……分かりません」
リオは入口へ戻った。
ユイは灯りを持ったまま、石灰倉の前に立っていた。顔色が少し悪い。
「休みますか」
「大丈夫です」
「無理をしているように見えます」
「無理はしています」
リオは何も言わなかった。
ユイは自分で言ってから、小さく息を吸った。
「でも、帰るのは違う気がします」
「理由は」
「私、たぶん知っていたんです」
「何を」
「ここに誰かがいること。大人たちがそれを見ないようにしていたこと。名前を聞かない方がいいと言われた時、それが親切なんだと思っていました」
ユイは油灯を少し下げた。
「でも、名前を聞かないことが、守ることじゃなくなる時もあるんですね」
リオはユイを見た。
「あります」
短い答えだった。
けれど、ユイはそれで十分だったらしい。
「リオさん」
「はい」
「その子が、ミナ・ロウなんですか」
「まだ断定できません」
「でも、そうかもしれない」
「はい」
ユイは布片を見る。
「ミナ・ロウって、本当の名前なんですか」
リオはすぐには答えなかった。
番号十七の木札。
削られた名前欄。
クレイア預地。
片翼の鳥の印。
クレイア家。
南方預託。
今あるものだけで断定するには足りない。
だが、隠されたものの輪郭は見え始めている。
「記録上の名です」
リオは言った。
「本名かどうかは、まだ確認が必要です」
ユイは頷いた。
「分かりました」
その時、林の奥から、乾いた枝を踏む音がした。
二人は同時に顔を上げた。
風ではない。
獣にしては、間隔が整っている。
人の足音だった。
リオはユイに目で合図した。
ユイは油灯の蓋を少し閉じ、火を弱くした。薬屋の手つきだった。光が小さくなり、石灰倉の影が濃くなる。
足音は一つではなかった。
二つ。
いや、三つ。
低い男の声が聞こえた。
「ここはもう空だろう」
「念のためだ。札が見つかったらしい」
「誰が」
「祭りの片付けだとよ」
ユイの肩がこわばった。
リオは静かに彼女の前へ出た。
男たちはまだ林の向こうにいる。
「奥へ」
リオが小声で言った。
「でも」
「声を出さずに」
ユイは頷いた。
二人は石灰倉の陰へ身を寄せる。
男たちの足音が近づいてくる。
「クレイアの名なんか、まだ気にする奴がいるのか」
「年寄りはな」
「じゃあ年寄りごと黙らせればいい」
「馬鹿。町ごと騒ぎになる」
別の男が低く言った。
「女一人分なら、まだ南が受ける」
「礼金は」
「半分は済んでる。残りは渡してからだ」
「保護預かりって話だろ」
「紙の上ではな」
ユイの手が、油灯を握りしめた。
リオはその手に軽く触れた。
力を入れるな、という合図だった。
男たちは石灰倉の前まで来た。
一人が崩れた入口を覗く。
灯りはほとんど消えている。
中までは見えない。
「誰もいないな」
「奥も見ろ」
「昼間から廃倉に入りたいのか」
「入れ」
男が舌打ちした。
リオは息を整えた。
戦うことはできる。
だが、ここで騒ぎを起こせば、相手の正体も経路も途切れる。ユイも巻き込む。
必要なのは、今ここで倒すことではない。
誰が、何を恐れて戻ってきたのかを知ることだった。
男が一歩、中へ入った。
その時、外から別の声が響いた。
「おーい、誰かいるのかい!」
年配の女の声だった。
サナではない。
赤屋根亭の女将の声だ。
男たちの動きが止まった。
「まずい」
「宿屋の女か」
「戻るぞ」
「まだ見てない」
「見られる方がまずい」
足音が乱れ、遠ざかっていく。
林の中へ消えるまで、リオは動かなかった。
やがて、女将の声がもう一度した。
「ユイ! いるなら返事しな!」
ユイは息を吐いた。
「女将さん……?」
リオは入口へ出た。
少し離れた道に、赤屋根亭の女将が立っていた。手には布袋を持っている。息が少し上がっていた。
「やっぱりいたね」
ユイが石灰倉の影から出てくる。
「どうしてここに」
「薬屋のおばあさんに言われたんだよ。あの子らが戻らなかったら、古道を見てこいって」
女将はそう言って、リオを見た。
「で、戻る気はあるのかい」
「あります」
「なら今すぐだね」
リオは林の奥を見た。
男たちはもう見えない。
だが、声は残っている。
女一人分なら、まだ南が受ける。
礼金は、半分。
紙の上では、保護預かり。
誰のことかは、まだ断定できない。
だが、候補は一人しかいなかった。
ユイは何かを言いかけたが、女将が先に遮った。
「質問は町に戻ってから。ここで立ち話をすると、靴どころか足が終わるよ」
「私の台詞を取らないでください」
「年寄りの方が先に言ってたんだよ」
ユイは言い返せなかった。
リオは石灰倉の中をもう一度見た。
片翼の鳥の布片。
赤紐の切れ端。
濃い泥。
空の薬瓶。
すべてを持ち出すことはしない。
だが、布片だけはこのまま置いておけない。
リオは女将を見る。
「布を一片、保全してもよろしいでしょうか」
女将はすぐに答えなかった。
「何の布だい」
「片翼の鳥の印があります」
女将の顔から、祭り明けの疲れが消えた。
ほんの一瞬だった。
「……なら、持っていきな」
「よろしいのですか」
「ここに置いておく方が悪い」
リオは布片を直接触らず、ユイが持っていた古い布に包んだ。
ユイはその動きを黙って見ていた。
帰り道、三人はほとんど話さなかった。
古道の橋を渡る時、ユイの靴が泥に沈んだ。
「ほら、終わりました」
ユイが小さく言った。
女将が前を歩きながら返す。
「まだ歩けるなら終わってない」
「厳しい」
「町まで戻ってから泣きな」
リオは少しだけ足を止めた。
ユイが見る。
「どうしました?」
「いえ」
「何かありました?」
「少しだけ、町の人らしいと思いました」
ユイは一瞬だけきょとんとして、それから小さく笑った。
「それ、褒めてます?」
「たぶん」
「たぶんなんですね」
女将が前から言った。
「二人とも、歩きながらにしな」
町の屋根が見え始めた。
ルドエンは、午後の光の中で静かだった。祭りの飾りはもうほとんどない。広場にはいつもの市場が戻り、子どもたちは灰の籠ではなく、空の籠を持って走っている。
いつもの町。
何も起きていないように見える町。
その外れに、クレイア預地は残っていた。
守るために名を問わなかった場所。
今は、名を消すために使われたかもしれない場所。
薬屋の前に戻ると、ユイの祖母が扉の前に立っていた。
ユイを見るなり、まず靴を見た。
「終わったね」
「靴は終わりました」
「人が終わってないならいい」
それから、祖母はリオの手元の包みを見た。
「見つけたのかい」
「片翼の鳥の印です」
祖母は目を閉じた。
「まだ残ってたか」
「ご存じなのですね」
「知らないふりをしていただけだよ」
ユイが祖母を見た。
「おばあちゃん」
祖母はユイへ視線を向けた。
「中へ入りなさい」
その声には、疲れがあった。
諦めではない。
長く待っていた者の疲れだった。
「ユイも、リオさんも」
リオは一歩だけ止まった。
「よろしいのですか」
「もう、外で話すことじゃない」
扉の内側から、薬草の匂いが流れてくる。
ユイはリオを見た。
今度は、案内するためではない。
一緒に聞くかどうかを、確かめる目だった。
リオは小さく頷いた。
薬屋の奥へ入る前に、リオは一度だけ広場の方を見た。
灯祭の灯りはもうない。
それでも、消えたはずの火が、まだ町の奥に残っているように見えた。