FIELD WARDEN

第1章 欠番の宿場町

1-6 灯を持つ者

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薬屋は、広場から一本外れた細い通りにあった。

赤屋根亭や荷預かり所ほど人の出入りは多くない。けれど、扉の前には乾かした草の束が吊るされ、窓辺には小さな瓶が並んでいる。瓶の中身は、琥珀色の油、黒い粒、白く乾いた根、細く砕いた葉。

店の前まで来ると、薬草と古い木箱の匂いがした。

リオは扉の前で足を止めた。

中は見ないように言われている。

だから、見なかった。

ただ、扉の向こうから聞こえる声だけは、止めようがなかった。

「北東へ行くのかい」

年配の女の声だった。

「入口まで。薬草を見に行くだけ」

ユイの声が答える。

「薬草なら南の湿地で足りる」

「月根草は北東の方がいいの」

「今朝、月根草は受け取っていただろう」

短い沈黙があった。

ユイは嘘がうまくない。

少なくとも、家の中ではそうらしい。

「……道を見に行くの」

「誰と」

「リオさんと」

「領主府の補助員かい」

「そう」

「何を調べている人だい」

「分からない」

「分からない人を、あの道へ連れていくのかい」

「悪い人ではないと思う」

「そこじゃない」

ユイは黙った。

棚のどこかで、小瓶が触れ合う音がした。

「橋の先へは行かない」

「入口までって言ったでしょ」

「なら、橋の手前までだ」

「橋の手前は入口じゃない」

「戻れる場所までだよ」

ユイはすぐには返事をしなかった。

「返事」

「……分かった」

「灯りを持っていきなさい」

「昼だよ」

「持っていきなさい」

「……分かった」

そこで扉が開いた。

ユイは籠を腕に下げて出てきた。昨日までの町用の靴ではなく、革紐で足首を締める古い靴に履き替えている。籠の中には小さな刃物、布、空の薬瓶、縄、乾いたパンが入っていた。

リオを見ると、少しだけ気まずそうな顔をした。

「待ちました?」

「少しだけ」

「店の中、見ました?」

「見ていません」

「聞こえました?」

リオは短く間を置いた。

「少しだけ」

ユイは肩を落とした。

「聞こえたんですね」

「はい」

「じゃあ、見てないだけですね」

「そうなります」

ユイは小さく笑った。

けれど、その笑いはすぐに消えた。

扉の奥から、年配の女が顔を出した。

白髪を後ろでまとめた、小柄な女だった。背は低いが、目だけは鋭い。薬草を扱う者の手らしく、指先には細かな傷と色移りがある。

「あなたがリオさんかい」

「はい。リオ・アスターです」

リオは頭を下げた。

「ユイを橋の先へ連れていかないでおくれ」

「入口まで案内していただく予定です」

「予定と違うことをしないでおくれ」

「はい」

女はリオをしばらく見ていた。

顔立ちに驚く様子はない。

あるいは、驚くより先に、別のことを見ている顔だった。

「クレイアの名を探してるんだってね」

ユイが息を呑んだ。

「おばあちゃん」

女はユイを見なかった。

リオは答えた。

「はい」

「その名を出すなら、気をつけなさい」

「承知しました」

女はそれ以上、言葉を重ねなかった。

「ユイ」

「はい」

「灯り」

「持った」

「布」

「入れた」

「傷薬」

「入れた」

「戻ること」

ユイは少しだけ顔を上げた。

「分かってる」

「それを一番優先しなさい」

「……分かった」

祖母はそれでようやく扉の内側へ戻った。

ユイは籠の中を一度確かめ、小さな油灯を布で包み直した。

「行きましょう」

「よろしいのですか」

「橋の手前までです」

「はい」

「それ以上は、状況を見て」

リオはユイを見た。

ユイはすぐに言い直した。

「……橋の手前までです」

「分かりました」

二人は薬屋の前を離れた。

北東古道へ向かう道は、広場の賑わいから少しずつ外れていく。

赤屋根亭の裏を過ぎ、荷預かり所の軒を離れ、麦街道へ向かう人の流れから逸れる。道幅は狭くなり、石畳の隙間に草が増えた。家々の屋根も低くなり、窓に吊るされた薬草や洗濯物が、風に揺れている。

ユイはいつもの早足ではなかった。

町の中では迷いなく進んでいた足が、北東へ向かうにつれて少しずつ慎重になる。

「この道は、普段使われないのですか」

リオが聞くと、ユイは前を見たまま答えた。

「まったく使わないわけじゃありません。薬草を採る人とか、猟師とか、古い石を取りに行く人とか」

「石」

「石灰倉があったって聞きます。今はほとんど崩れてますけど」

「見たことは?」

「入口から少しだけ」

「奥は」

「行ってません」

答えは早かった。

だが、嘘ではない。

本当に奥までは行っていない声だった。

町の最後の家を過ぎると、小さな水路が見えた。

水は浅く、石の間を細く流れている。橋と呼ぶには簡素な板が三枚渡されていた。板は古く、端が少し沈んでいる。

ユイは橋の手前で足を止めた。

「ここまでです」

「ここが入口ですか」

「祖母の言い方では」

「ユイさんの言い方では」

ユイは橋の向こうを見た。

「入口は、この先です」

水路の向こうには、林へ続く細い道がある。枝が道の上へ伸び、昼の光をまだらにしていた。

リオは橋を見る。

板の表面には、最近ついた泥があった。

乾ききっていない。

「昨日か今朝、誰かが通っています」

リオが言うと、ユイは橋を見た。

「薬草採りかもしれません」

「そうですね」

「そうじゃないかもしれませんけど」

ユイは小さく言い、すぐに口を閉じた。

リオは橋の手前で膝を折った。

板に残った泥は、町の石畳の泥より濃い。北東古道の土だろう。だが、板の端には、車輪ではなく何かを引いたような細い跡があった。

荷車そのものは通れない。

人が担いだか、引きずったか。

リオは立ち上がった。

「少しだけ、向こう側を確認します」

ユイは黙った。

「ここで待っていてください」

「橋の手前で?」

「はい」

「ここで一人で待っていたら、かえって目立ちます」

リオはユイを見た。

ユイは籠を抱え直した。

「薬草を採りに来たなら、少しは道に入らないと変です」

「しかし、約束は」

「橋を渡って、入口までです。そこで戻ります」

リオは少しだけ沈黙した。

「分かりました。入口までです」

「はい」

二人は橋を渡った。

板は少し沈んだが、折れはしなかった。ユイの籠の中で小瓶が小さく鳴った。

古道は林の中へ入っていた。

木々は高くない。だが、枝が道の上へ伸び、昼の光を細かく分けている。足元は湿っていて、落ち葉が黒く重なっていた。古い石畳らしいものがところどころ見えるが、半分は土に沈んでいる。

道の脇には、細い杭が立っていた。

上部は割れ、文字はほとんど読めない。

リオは膝を折り、杭の表面を見た。

墨ではない。

焼き印だった。

かすかに残った線は、鳥の翼のようにも見える。

「これ」

ユイが後ろから覗き込んだ。

「知っていますか」

「昔、祖母が同じ印の箱を持っていました。薬草を乾かす箱です」

「今もありますか」

「もうありません。壊れたから、薪にしたって言っていました」

ユイは杭から目を離した。

「でも、たぶん同じ印です」

「クレイア家の印かもしれません」

「クレイア家」

ユイはその名を、口の中で確かめるように言った。

「町では、あまり聞かない名前です」

「年配の方は知っているようです」

「たぶん、知っています」

「ユイさんは」

「名前だけなら。昔の偉い家、くらいです」

「よい印象ですか」

ユイはすぐには答えなかった。

足元の落ち葉を靴先で少し避ける。

「悪く言う人は、あまりいません。でも、はっきり良く言う人もいません」

「なぜでしょう」

「言わない方がいい名前って、町にはあります」

その答えは、ユイ自身のものというより、暮らしてきた町から覚えたものだった。

リオは立ち上がった。

「入口はここまでですか」

ユイは少し先を見た。

「もう少し行くと、古い石壁があります。そこまでが、私の知っている入口です」

「では、そこまで」

「そこまでです」

二人は古道を進んだ。

少し行くと、林の中に低い石壁が現れた。

壁といっても、ほとんど崩れている。石灰で固められていたらしい白い跡が、苔の下に残っていた。奥には井戸がある。木蓋は割れ、上に落ち葉が積もっていた。

その隣に、小屋の跡が二つ。

屋根はない。

柱だけが残り、乾いた草の匂いがかすかに残っている。

薬草乾燥小屋。

旧管理地台帳にあった記載と一致する。

リオは周囲を見渡した。

人が住んでいる様子はない。

だが、完全に捨てられているわけでもない。

井戸の近くの草が、最近踏まれている。小屋の柱には、古い縄とは別に、新しい麻紐の切れ端が残っていた。石灰倉らしい低い建物の入口には、土をかぶせた跡がある。

「使われていますね」

リオが言うと、ユイは息を詰めた。

「誰かが?」

「少なくとも、最近ここに来た人がいます」

「薬草採りかもしれません」

「その可能性はあります」

リオは小屋の柱に近づいた。

麻紐の切れ端。

赤く染めた紐だった。

昨日、番号十七の木札についていた紐とよく似ている。

リオは触れずに見た。

「ユイさん」

「はい」

「ここへ来る薬草採りは、赤い紐を使いますか」

「使いません」

答えはすぐだった。

今度は早すぎない。

生活の中で知っていることを答えただけだった。

「薬草は布袋か籠です。束ねるなら麻紐だけ。色つきの紐は、荷預かり所とか、役場とか、祭りの仕分けくらいです」

「ありがとうございます」

リオは周囲を確認した。

石灰倉の入口に、細い擦れ跡がある。

何かを引きずった跡。

木箱ではない。

布袋でもない。

重さのある長いものを、低く引いた跡だった。

昨日の荷車の床板に残っていた擦れ跡と、幅が近い。

ユイも地面の跡に気づいた。

「何かを引きずった跡ですか」

「そう見えます」

「荷車は、ここまで入れませんよね」

「橋を越えられません」

ユイは石灰倉の入口を見た。

「じゃあ、誰かがここまで運んだんですか」

「その可能性があります」

石灰倉の入口には、古い扉が倒れかけていた。隙間から中が見える。暗い。昼なのに、奥は光が届いていない。

ユイは籠の中から油灯を取り出した。

「使いますか」

「いいのですか」

「持てと言われたので」

「では、お願いします」

ユイは火を入れる準備をした。

手つきは少し緊張していたが、慣れている。薬屋で小さな火を扱うことがあるのだろう。油灯に火が入り、蓋の内側で淡く揺れた。

リオは倒れた扉の隙間から中へ入った。

「ユイさんは外で待っていてください」

「そう言うと思いました」

「危険かもしれません」

「それも言うと思いました」

「では」

「外で待ちます」

ユイは灯りをリオへ渡そうとした。

リオは受け取らなかった。

「灯りを持っていてください。入口から中を照らしていただけますか」

「それなら、外です」

「はい」

ユイは少しだけ納得したように頷いた。

石灰倉の中は、ひんやりしていた。

壁に残った白い粉が、灯りに淡く浮かぶ。床には古い石片と木片が散らばっている。その奥に、最近動かされた跡があった。

土の色が違う。

乾いた白い粉の上に、濃い泥が落ちている。

泥は北東古道のものではない。

昨日、荷車の車輪についていた濃い泥と似ていた。

リオは奥へ進んだ。

壁際に、小さな布片が落ちている。

粗布。

端に、古い刺繍があった。

鳥の片翼。

右側が欠けている。

リオは触れずに、しばらく見た。

クレイア家の印。

杭に残っていた翼の形。

そして、昨日の番号十七の木札。

名前は削られていた。

だが、印は削られずに残ることがある。

「何かありましたか」

入口からユイの声がした。

「布片があります」

「布?」

「古い刺繍のあるものです」

「見ても?」

「中には入らないでください」

「入口から見ます」

ユイは灯りを少し高くした。

光が奥まで届く。

布片の刺繍が、わずかに浮かんだ。

ユイの息が止まった。

本当に小さな音だった。

それでも、リオには分かった。

「知っていますか」

リオは聞いた。

ユイはすぐには答えなかった。

「……同じ印を、見たことがあります」

「薬草箱ですか」

「それも。でも、別のところで」

「どこで」

ユイは唇を結んだ。

油灯の火が揺れている。

「古い石灰小屋の近くで、女の子に薬を渡したことがあります」

リオは動かなかった。

「いつですか」

「半年くらい前です」

半年前。

町財務副役が旧附属地記録を閲覧した頃。

リオは言葉を待った。

ユイはゆっくり続けた。

「祖母に頼まれて、熱冷ましと傷薬を持っていきました。相手の名前は聞くなって言われました。聞かないで、置いて帰ってこいって」

「会ったのですか」

「はい」

「どのような人でしたか」

ユイは灯りを持つ手に力を入れた。

「私より少し年下に見えました。痩せていて、手に傷がありました。髪は布で隠していて、顔もあまり見えませんでした。でも、声は覚えています」

「名前は」

「聞いていません」

「その時、その印を?」

「包み布にありました。片翼の鳥みたいな印です」

ユイは奥の布片を見つめている。

「祖母に、誰かと聞いたら、昔の預かりだと言われました」

「昔の預かり」

「はい」

ユイの声が少し震えた。

「私、その子はどこかの奉公先へ行ったのだと思ってました。病気が治って、町を出たんだと思ってました」

「そう聞いたのですか」

「はっきりとは。でも、そういう話し方でした」

「誰が」

「祖母と、サナおばさんと、女将さんです。みんな詳しくは言わなかった」

ユイはそこで黙った。

林の外で、鳥が鳴いた。

町の音はもう届かない。

リオは石灰倉の奥を確認した。

床には、布片のほかに、乾いたパンの欠片、空になった薬瓶、折れた木片がある。新しいものではないが、何年も前のものでもない。

ここは、ただの廃墟ではなかった。

誰かが、一時的に使っていた。

そしてその誰かは、町の何人かに知られていた。

「ユイさん」

「はい」

「その女の子を、もう一度見たことはありますか」

ユイは首を横に振った。

「ありません」

「昨日の灯祭では」

「……分かりません」

リオは入口へ戻った。

ユイは灯りを持ったまま、石灰倉の前に立っていた。顔色が少し悪い。

「休みますか」

「大丈夫です」

「無理をしているように見えます」

「無理はしています」

リオは何も言わなかった。

ユイは自分で言ってから、小さく息を吸った。

「でも、帰るのは違う気がします」

「理由は」

「私、たぶん知っていたんです」

「何を」

「ここに誰かがいること。大人たちがそれを見ないようにしていたこと。名前を聞かない方がいいと言われた時、それが親切なんだと思っていました」

ユイは油灯を少し下げた。

「でも、名前を聞かないことが、守ることじゃなくなる時もあるんですね」

リオはユイを見た。

「あります」

短い答えだった。

けれど、ユイはそれで十分だったらしい。

「リオさん」

「はい」

「その子が、ミナ・ロウなんですか」

「まだ断定できません」

「でも、そうかもしれない」

「はい」

ユイは布片を見る。

「ミナ・ロウって、本当の名前なんですか」

リオはすぐには答えなかった。

番号十七の木札。

削られた名前欄。

クレイア預地。

片翼の鳥の印。

クレイア家。

南方預託。

今あるものだけで断定するには足りない。

だが、隠されたものの輪郭は見え始めている。

「記録上の名です」

リオは言った。

「本名かどうかは、まだ確認が必要です」

ユイは頷いた。

「分かりました」

その時、林の奥から、乾いた枝を踏む音がした。

二人は同時に顔を上げた。

風ではない。

獣にしては、間隔が整っている。

人の足音だった。

リオはユイに目で合図した。

ユイは油灯の蓋を少し閉じ、火を弱くした。薬屋の手つきだった。光が小さくなり、石灰倉の影が濃くなる。

足音は一つではなかった。

二つ。

いや、三つ。

低い男の声が聞こえた。

「ここはもう空だろう」

「念のためだ。札が見つかったらしい」

「誰が」

「祭りの片付けだとよ」

ユイの肩がこわばった。

リオは静かに彼女の前へ出た。

男たちはまだ林の向こうにいる。

「奥へ」

リオが小声で言った。

「でも」

「声を出さずに」

ユイは頷いた。

二人は石灰倉の陰へ身を寄せる。

男たちの足音が近づいてくる。

「クレイアの名なんか、まだ気にする奴がいるのか」

「年寄りはな」

「じゃあ年寄りごと黙らせればいい」

「馬鹿。町ごと騒ぎになる」

別の男が低く言った。

「女一人分なら、まだ南が受ける」

「礼金は」

「半分は済んでる。残りは渡してからだ」

「保護預かりって話だろ」

「紙の上ではな」

ユイの手が、油灯を握りしめた。

リオはその手に軽く触れた。

力を入れるな、という合図だった。

男たちは石灰倉の前まで来た。

一人が崩れた入口を覗く。

灯りはほとんど消えている。

中までは見えない。

「誰もいないな」

「奥も見ろ」

「昼間から廃倉に入りたいのか」

「入れ」

男が舌打ちした。

リオは息を整えた。

戦うことはできる。

だが、ここで騒ぎを起こせば、相手の正体も経路も途切れる。ユイも巻き込む。

必要なのは、今ここで倒すことではない。

誰が、何を恐れて戻ってきたのかを知ることだった。

男が一歩、中へ入った。

その時、外から別の声が響いた。

「おーい、誰かいるのかい!」

年配の女の声だった。

サナではない。

赤屋根亭の女将の声だ。

男たちの動きが止まった。

「まずい」

「宿屋の女か」

「戻るぞ」

「まだ見てない」

「見られる方がまずい」

足音が乱れ、遠ざかっていく。

林の中へ消えるまで、リオは動かなかった。

やがて、女将の声がもう一度した。

「ユイ! いるなら返事しな!」

ユイは息を吐いた。

「女将さん……?」

リオは入口へ出た。

少し離れた道に、赤屋根亭の女将が立っていた。手には布袋を持っている。息が少し上がっていた。

「やっぱりいたね」

ユイが石灰倉の影から出てくる。

「どうしてここに」

「薬屋のおばあさんに言われたんだよ。あの子らが戻らなかったら、古道を見てこいって」

女将はそう言って、リオを見た。

「で、戻る気はあるのかい」

「あります」

「なら今すぐだね」

リオは林の奥を見た。

男たちはもう見えない。

だが、声は残っている。

女一人分なら、まだ南が受ける。

礼金は、半分。

紙の上では、保護預かり。

誰のことかは、まだ断定できない。

だが、候補は一人しかいなかった。

ユイは何かを言いかけたが、女将が先に遮った。

「質問は町に戻ってから。ここで立ち話をすると、靴どころか足が終わるよ」

「私の台詞を取らないでください」

「年寄りの方が先に言ってたんだよ」

ユイは言い返せなかった。

リオは石灰倉の中をもう一度見た。

片翼の鳥の布片。

赤紐の切れ端。

濃い泥。

空の薬瓶。

すべてを持ち出すことはしない。

だが、布片だけはこのまま置いておけない。

リオは女将を見る。

「布を一片、保全してもよろしいでしょうか」

女将はすぐに答えなかった。

「何の布だい」

「片翼の鳥の印があります」

女将の顔から、祭り明けの疲れが消えた。

ほんの一瞬だった。

「……なら、持っていきな」

「よろしいのですか」

「ここに置いておく方が悪い」

リオは布片を直接触らず、ユイが持っていた古い布に包んだ。

ユイはその動きを黙って見ていた。

帰り道、三人はほとんど話さなかった。

古道の橋を渡る時、ユイの靴が泥に沈んだ。

「ほら、終わりました」

ユイが小さく言った。

女将が前を歩きながら返す。

「まだ歩けるなら終わってない」

「厳しい」

「町まで戻ってから泣きな」

リオは少しだけ足を止めた。

ユイが見る。

「どうしました?」

「いえ」

「何かありました?」

「少しだけ、町の人らしいと思いました」

ユイは一瞬だけきょとんとして、それから小さく笑った。

「それ、褒めてます?」

「たぶん」

「たぶんなんですね」

女将が前から言った。

「二人とも、歩きながらにしな」

町の屋根が見え始めた。

ルドエンは、午後の光の中で静かだった。祭りの飾りはもうほとんどない。広場にはいつもの市場が戻り、子どもたちは灰の籠ではなく、空の籠を持って走っている。

いつもの町。

何も起きていないように見える町。

その外れに、クレイア預地は残っていた。

守るために名を問わなかった場所。

今は、名を消すために使われたかもしれない場所。

薬屋の前に戻ると、ユイの祖母が扉の前に立っていた。

ユイを見るなり、まず靴を見た。

「終わったね」

「靴は終わりました」

「人が終わってないならいい」

それから、祖母はリオの手元の包みを見た。

「見つけたのかい」

「片翼の鳥の印です」

祖母は目を閉じた。

「まだ残ってたか」

「ご存じなのですね」

「知らないふりをしていただけだよ」

ユイが祖母を見た。

「おばあちゃん」

祖母はユイへ視線を向けた。

「中へ入りなさい」

その声には、疲れがあった。

諦めではない。

長く待っていた者の疲れだった。

「ユイも、リオさんも」

リオは一歩だけ止まった。

「よろしいのですか」

「もう、外で話すことじゃない」

扉の内側から、薬草の匂いが流れてくる。

ユイはリオを見た。

今度は、案内するためではない。

一緒に聞くかどうかを、確かめる目だった。

リオは小さく頷いた。

薬屋の奥へ入る前に、リオは一度だけ広場の方を見た。

灯祭の灯りはもうない。

それでも、消えたはずの火が、まだ町の奥に残っているように見えた。

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# QO OBSERVATION FILE

## 観測対象

ルドエン宿場町
北東古道
旧クレイア預地跡
旧石灰倉周辺

## 概要

クレイア預地跡の現地確認を実施。

役場地下書庫および教会記録で確認された「クレイア預地」は、北東古道沿いに実在していた。
現地には、井戸、薬草乾燥小屋跡、石灰倉跡、旧境界杭と思われる残存物を確認。

同地は現在、正式には使用停止または放棄扱いと見られるが、現地には近時の使用痕跡が複数確認された。

## 確認された現地痕跡

- 北東古道入口の橋に新しい泥跡あり
- 橋は荷車の通行に適さず、人力での運搬または引きずり移動が必要
- クレイア預地跡に旧井戸を確認
- 薬草乾燥小屋跡を確認
- 石灰倉跡を確認
- 旧杭に片翼の鳥に類似する焼き印を確認
- 石灰倉周辺に新しい麻紐の切れ端を確認
- 赤く染められた紐を確認
- 石灰倉入口に、重いものを低く引いたような擦れ跡を確認
- 石灰倉内部に濃い泥の付着を確認
- 粗布片を確認
- 粗布片に片翼の鳥の刺繍あり
- 空の薬瓶、乾いたパンの欠片、折れた木片を確認

## クレイア家印について

現地の杭および粗布片に、片翼の鳥に類似する印を確認。

ユイの証言により、同様の印は薬草乾燥用の古い箱にも使用されていた可能性がある。
この印は、旧クレイア家またはクレイア預地の管理物に関連する可能性が高い。

## ユイ証言

ユイは半年前、祖母の依頼により、北東古道周辺の古い石灰小屋付近へ熱冷ましと傷薬を届けた経験がある。

当時、相手の名前は聞かないよう指示されていた。
ユイは、相手を「自分より少し年下に見える少女」と認識。
相手は痩せており、手に傷があり、髪と顔を布で隠していた。
包み布には、片翼の鳥に似た印があった。

ユイは、その人物が後に奉公先または別の場所へ移ったものと認識していた。
ただし、この説明は祖母、サナ、赤屋根亭女将らによる曖昧な説明に基づく。

現時点で、当該人物と「ミナ・ロウ」が同一人物であるとは断定しない。
ただし、時期、場所、印、隠匿状況から、同一人物である可能性は高い。

## 追加確認された会話

クレイア預地跡周辺にて、複数名の男の会話を確認。

確認された発言内容の要点は以下。

- 札が見つかったことを把握している
- クレイアの名を気にする者がいることを警戒している
- 年配者の記憶を問題視している
- 「女一人分なら、まだ南が受ける」
- 「礼金は半分は済んでいる。残りは渡してから」
- 「保護預かり」という名目を使用
- 「紙の上では」と発言

この会話により、南方への移送が単なる保護ではなく、金銭授受を伴う可能性が高まった。

## 現時点の判断

1. クレイア預地跡は、近時まで誰かを一時的に置く場所として使われていた可能性が高い。
2. 旧保護地としての機能が、現在は別目的に転用されている可能性がある。
3. 「保護預かり」は表向きの記録名目であり、実態は金銭授受を伴う移送である可能性がある。
4. 「ミナ・ロウ」は記録上の名であり、本名または旧名でない可能性がある。
5. ミナ・ロウと旧クレイア家の関係は未確定。ただし、クレイア預地、片翼の鳥の印、半年前の薬届け、南方預託記録との関連性は強い。
6. ユイは本件の一部に無自覚に関与していた可能性がある。
7. ユイは今後、証言者または保護対象となる可能性がある。

## リスク評価

人的保護対象発生の可能性あり。

対象候補:

- ミナ・ロウ
- ユイ
- ユイの祖母
- 赤屋根亭女将
- サナ

町全体を敵対対象として扱うべきではない。
一般住民の多くは通常の生活・祭り・荷扱いの範囲で行動しており、全体像を把握しているとは限らない。

ただし、町内の一部人物、または町外勢力と接続した者が、クレイア名およびミナ・ロウの移送に関与している可能性がある。

## 未確認事項

- ミナ・ロウの本名
- ミナ・ロウとクレイア家の血縁または身分関係
- 番号十七の木札とミナ・ロウの直接接続
- 南方の受け入れ先
- 礼金の支払元および受取先
- 町財務副役の関与範囲
- 現領主府巡回使と旧クレイア預地閲覧の関係
- サナ、女将、ユイ祖母が知っている過去情報の範囲

## 次行動

- 薬屋奥での証言確認
- ユイ祖母、赤屋根亭女将からの過去証言取得
- サナの関与範囲確認
- ミナ・ロウの本名または旧名の確認
- 旧クレイア家の家系記録確認
- 番号十七の木札と南方預託記録の照合
- 南方受け入れ先の特定
- ユイの安全確保
- 必要に応じて、QO保護対象としての扱いを検討

## 提出区分

内部観測報告
現地継続調査必須
機密度:中〜高
人的保護対象発生の可能性あり
金銭授受を伴う偽装保護移送の疑いあり