第1章 欠番の宿場町
1-5 クレイアの預地
祭りの飾りが外されると、ルドエンは少し狭く見えた。
昨日まで広場を横切っていた灯籠の縄は外され、白い小花も石柱からほどかれている。石畳にはまだ灰が残っていたが、人々はもうそれを祭りの名残としてではなく、掃くべきものとして見ていた。
リオは南門から戻り、もう一度役場へ向かった。
探すものは、村ではない。
クレイア村という名は、地図にも索引にもなかった。廃村一覧にも、改名一覧にもない。けれど、配給控え、通行控え、巡礼者台帳には同じ名が残っている。
ならば、村名として探すのが間違っている。
役場の扉を開けると、紙と湿った木の匂いがした。祭り明けで、人の出入りは少ない。机の上には、灯り皿の貸出控えや、教会へ回す灯籠の仕分け控えが積まれている。
祭りは終わっていた。
だが、終わったことを確かめるための控えだけが、まだ役場に残っていた。
ダレンは机の奥で、薄い冊子の束を紐でまとめていた。目の下には、昨日よりも濃い影がある。
リオを見ると、彼は手を止めずに言った。
「今度は何を探す」
「クレイアです」
「この辺りに、その名の村はない」
「村としては、ありませんでした」
そこで、ダレンの手が止まった。
「村としては?」
「預地、保護地、旧管理地、領主家の直接管理地。そのどれかに分類されている可能性があります」
ダレンはしばらくリオを見ていた。
それから、結びかけていた紐を最後まで締めた。
「旧記録を見ることになる」
「お願いします」
「私が出す。触るな」
「はい」
「順番を崩されると、探すものが一つ増える」
ダレンは立ち上がり、役場の奥の扉へ向かった。
扉の向こうには、石の階段が下へ続いていた。地上よりも冷たい空気が上がってくる。紙と湿った石と古い革紐の匂いが混じっていた。
「ついて来なさい」
リオは小さく頷いた。
地下の書庫は、広くはなかった。
壁際に棚が並び、古い冊子が紐で束ねられている。木札には、徴税、土地、通行、寄進、旧領、保護地、失効、再登録、といった分類が墨で書かれていた。
地上の役場と違い、ここでは紙の色が時代ごとに違っていた。新しいものは薄く白い。古いものは黄色く、さらに古いものは茶に近い。端が欠け、紐の跡だけが濃く残っているものもある。
ダレンは迷わず一つの棚へ向かった。
「見るのは、旧管理地の索引だけだ」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。早く済ませる」
彼は棚から細長い索引冊子を抜き出し、台の上に置いた。
表紙には、旧領地附属地索引、とある。
ダレンは指で行を追った。リオは横から文字を読む。
麦街道北部、南門外倉地、旧薬草乾燥場、川沿い避難小屋。
そして、途中の行で指が止まった。
クレイア預地。
村ではなかった。
クレイア村、ではない。
クレイア預地。
リオはその文字を見た。
「預地」
「古い分類だ」
ダレンの声は低かった。
「町ではない。村でもない。誰かの完全な所有地でも、ただの公有地でもない。領主家や旧家が名義を持ちながら、実際には人を置いた土地だ」
「避難民や保護対象を置くための土地ですか」
「そういう使われ方もある」
「この町の北に?」
「正確には、北東の古道沿いだ。今の麦街道から外れる」
ダレンは別の冊子を出した。
旧管理地台帳。
表紙の角が擦り切れ、紐の結び目だけが新しかった。誰かが近年、結び直したのだろう。
冊子を開くと、古い文字が並んでいた。
クレイア預地。北東古道沿い。井戸一。薬草乾燥小屋二。石灰倉一。一時滞在者、名を問わず。道を問わず。灯を絶やさず。
リオは、その三行で目を止めた。
名を問わず。
道を問わず。
灯を絶やさず。
昨日、子どもたちが口にしていた祭りの言葉よりも、ずっと古い形に見えた。
「これは灯祭の由来ですか」
リオが尋ねると、ダレンは首を横に振った。
「由来とまでは言えない。古い保護文言だ。役場の答えではない」
「保護文言」
「年寄りがそう言う」
「役場では、どう扱いますか」
「旧家の附属地管理記録だ」
ダレンは別の行を指で押さえた。
そこには、乾燥薬草、粗布、黒パン、井戸縄、冬用灰炭といった物資の記載があった。その下に、寄進元としていくつかの名が続いている。
最も多く現れる名は、クレイア家だった。
リオは黙って行を追った。
クレイア家寄進。クレイア家修繕。クレイア家薬草庫より補填。クレイア家南門再建費。クレイア家水害時穀倉開放。
同じ家名が、何度も現れている。
「クレイア家」
ダレンは答えなかった。
リオはさらに先を読む。
水害の年には穀倉を開き、南門が崩れた年には再建費を出している。麦街道の修復、北東古道の巡回、避難者の受け入れ、薬草庫の開放。クレイア家の名は、町の外にある預地だけではなく、ルドエンそのものにも深く関わっていた。
南門の横梁。
昨日、荷車が抜けた石柱。
旅人に灯りを渡す祭り。
そのいくつかに、この家の名が残っている。
「ミナ・ロウの記録には、出身地としてクレイア村とあります」
ダレンは冊子から目を離さなかった。
「村ではない」
「はい」
「だが、その名を村として書いた者がいる」
「そう見えます」
「古い家名を、土地の名のように使うことはある。特に、正式に残したくない時にはな」
リオはダレンを見た。
「正式に残したくない」
「一般論だ」
「役場の答えでは」
「ない」
リオは頷いた。
「では、聞かなかったことにします」
ダレンは答えなかった。
リオは旧管理地台帳の下段を見た。
ある年を境に、記載の言葉が変わっている。
保護、寄進、滞在、修繕。
それらが少しずつ減り、代わりに別の語が増えていく。
再登録。接収。移管。監視。照合不能者。
さらに後の年になると、クレイア預地の記載そのものが細くなる。
薬草乾燥小屋一、使用停止。井戸、要修繕。一時滞在記録、領主府へ移管。旧名使用不可。
リオは指で触れず、目だけで追った。
「旧名使用不可」
「政変の後だ」
ダレンが言った。
「クレイア家は失脚した。町の中で大きな声で語る名ではなくなった」
「反乱に関わったのですか」
「私は当時の人間ではない」
「記録上は」
「記録上は、旧勢力に近い家とされた」
「事実は」
ダレンはリオを見た。
「役場で答えることではない」
リオは頷いた。
「承知しました」
それ以上、詰めなかった。
ダレンは旧管理地台帳を閉じかけ、少し迷ってから、さらに一冊を棚から出した。
「これで最後だ」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。出すと決めたのはこちらだ」
新しい冊子ではなかった。
だが、先ほどの台帳よりは新しい。表紙には、旧附属地再整理控え、とある。
そこには、預地の扱いがまとめられていた。
クレイア預地。旧保護対象滞在地。現状確認不能。管理境界再設定。一部、南方預託。一部、領外保護。一部、不明。
南方預託。
その言葉だけ、周囲より少し新しい墨で書き足されていた。
「南方預託とは」
リオが聞くと、ダレンは答えなかった。
代わりに冊子を閉じる。
「役場で分かるのはここまでだ」
「この記録は、最近閲覧されていますか」
ダレンの眉がわずかに動いた。
「なぜ聞く」
「紐が新しい。表紙の埃も、他の冊子より薄い」
ダレンはしばらく黙っていた。
それから、書庫の壁際に掛けられている貸出札の束を取った。
「半年前に出ている」
「誰が」
「町財務副役」
「目的は」
「旧附属地の確認」
「時期は」
「領主府からの巡回使が来た頃だ」
リオはその言葉を胸の内で留めた。
領主府の巡回使。
現在の領主家に関わる者が、半年前にクレイア預地の旧記録を確認している。
そして今、ミナ・ロウという名が、クレイア村を出身地として記録に現れた。
「写しを取ることはできますか」
「できない」
ダレンは即答した。
「では、内容だけ確認しました」
「それでいい」
ダレンは冊子を元の位置に戻した。
戻す時の手つきは、雑ではなかった。古いものを嫌っているのではない。むしろ、触れる順番を知っている手だった。
地上へ戻る途中、階段の半ばでダレンが言った。
「昔のことは、残した者より、黙った者の方が多い」
リオは足を止めなかった。
「町のことですか」
「一般論だ」
「役場の答えでは」
「ない」
「では、聞かなかったことにします」
ダレンは少しだけ鼻で笑った。
「そうしておけ」
地上へ戻ると、役場の空気は少し暖かかった。
窓の外では、片付けを終えた子どもたちが、灰の入った籠を教会の方へ運んでいる。燃え残った紙を抱えたユイの姿も見えた。
リオは役場を出て、教会へ向かった。
教会の入口では、助祭が燃え残った灯籠の紙を受け取っていた。灰になったものは裏庭の小さな穴へ。絵や願いの文様が残ったものは、奥の棚へ。そこで改めて祈りを受けるのだという。
ユイはその棚の前で、紙をまっすぐに重ねていた。
リオに気づくと、小さく会釈する。
「また教会ですか」
「少し確認です」
「役場の方が先だったんですね」
「はい」
ユイは紙束を抱え直した。
「リオさん、朝からずっと確認してますね」
「仕事ですから」
「それはそうなんですけど」
ユイは少しだけ言葉を迷わせた。
「確認して、何か変わりますか」
リオはすぐには答えなかった。
教会の中には、昨日の灯りの匂いがまだ残っている。消えた油、乾いた紙、古い木の香り。人の祈りが形を失った後に残る匂いだった。
「変わらないこともあります」
リオは言った。
「ですが、確認しなければ、何が変わらなかったのかも分かりません」
ユイはその言葉を、すぐには理解しきれない顔で聞いていた。
「難しいですね」
「そうですね」
「でも、少し分かる気もします」
リオはユイを見た。
ユイは棚の方へ目を戻した。
「燃えきったものと、燃え残ったものを分けないと、どっちも同じ灰にされます。そういうことですか」
リオは少しだけ間を置いた。
「近いと思います」
「じゃあ、今日は少しだけ分かりました」
ユイはそう言って、燃え残った灯籠を棚へ置いた。
リオはその棚を見た。
奥には、古い紙片もいくつか収められている。祭りのものだけではないらしい。端の焦げた祈祷紙、古い寄進名簿の切れ端、補修された灯籠の絵。
助祭が近づいてきた。
「何かお探しですか」
「古い灯祭の記録はありますか」
助祭は少し考えた。
「教会台帳の古いものならあります。ただし、信仰内容はお見せできません」
「祭りの口上と、クレイアという名の確認だけです」
助祭の表情がわずかに固くなった。
「クレイア」
「ご存じですか」
「古い祈祷記録に、名が出ます」
助祭は奥の棚から薄い冊子を一冊取り出した。
それは役場の台帳よりもさらに古く見えた。表紙には、灯渡し祈祷控え、とある。
助祭は慎重に開く。
古い文字で、灯祭の原型らしき文言が残っていた。
名を問わず。
道を問わず。
灯を絶やさず。
その下に、小さく添えられた行がある。
北東古道、クレイア預地へ向かう者にも同じく。
リオは息を整えた。
「クレイア預地」
「昔は、道に迷った者や、行き場のない者を一時的に受け入れる場所だったと聞いています」
助祭は声を低くした。
「教会の言い伝えです。役場の正式記録ではありません」
「十分です」
「ただ、今は使われていません」
「いつからですか」
「少なくとも、私がここへ来た時には」
「閉鎖記録は」
「教会にはありません」
助祭は冊子を閉じようとして、少しだけ手を止めた。
「ただ、寄進控えは残っています」
彼は別の薄い冊子を出した。
灯祭寄進控え。
そこには、クレイア家の名があった。
灯皿二十。旅人用油。北東古道の灯台修繕費。クレイア預地、冬支度分。
その後、ある年を境にクレイア家の名は消えている。
代わりに、匿名寄進、とだけ書かれた行が続く。
灯皿五。薬草一束。古布三枚。油少量。
その匿名寄進も、年を追うごとに減っていた。
「誰かが続けていたのですね」
リオが言うと、助祭は静かに頷いた。
「名を出せなかったのかもしれません」
「出さなかったのではなく」
「その違いは、教会には分かりません」
助祭はそう言った。
役場ではない答え。
だが、役場で聞いたことと重なっている。
リオは礼を言い、教会を出た。
広場の片付けは、ほとんど終わりかけていた。縄は外され、灰の籠は運ばれ、石畳にはまだ小さな紙片が残っているだけだった。
ユイが、最後の紙灯籠を抱えて教会から出てきた。
「リオさん」
「はい」
「クレイアって、何ですか」
リオは足を止めた。
ユイは、質問してすぐに少し後悔したような顔をした。
「すみません。聞くことじゃなかったら」
「いえ」
リオは答えを探した。
村ではない。地図にもない。だが、町の古い記録と教会の祈りの中には残っている。
「昔、人を一時的に受け入れていた場所の名です」
ユイは少しだけ目を伏せた。
「人を?」
「旅人、避難者、行き場のない人。記録上は、そう読めます」
「今は?」
「使われていないことになっています」
ユイはその言い方に気づいたらしい。
「ことになっている」
「はい」
「……じゃあ、誰かがまだ、その名前を使ったんですか」
リオはすぐには答えなかった。
ミナ・ロウ。
クレイア村。
地図にない村。
役場の旧記録に残る預地。
教会の祈祷控えに残る保護文言。
そして、名前だけが削られた番号十七の木札。
「その可能性があります」
リオはそう答えた。
ユイは黙った。
遠くで、サナが誰かを叱る声が聞こえる。女将が笑い、子どもが走り、荷車が石畳を鳴らす。
町はまた、いつもの音に戻り始めていた。
「クレイアは、悪い場所なんですか」
ユイが聞いた。
「記録上は、そうではありません」
「じゃあ」
「少なくとも古い記録では、誰かを隠すためではなく、守るための場所に見えます」
ユイはその言葉を聞いて、少しだけ息を吐いた。
安心したようにも、余計に分からなくなったようにも見えた。
「今も、そうなんでしょうか」
リオは答えなかった。
答えられなかったのではない。
今ここで答えるには、まだ確認が足りなかった。
「それを確認します」
リオは言った。
ユイは頷いた。
「分かりました」
「ユイさん」
「はい」
「北東古道へ向かう道を知っていますか」
ユイは少し驚いた顔をした。
「知ってます。でも、今はあまり使いません」
「理由は」
「橋が悪いのと、林が深いのと、あと……」
そこで言葉が止まった。
「あと」
「おばあちゃんが、あっちへ行くなって言います」
「なぜですか」
「昔の道だから」
「昔の道」
「そう言われます。理由は、ちゃんとは」
ユイは腕の中の紙灯籠を抱え直した。
「でも、薬草を採りに行く人は、たまに使います。私も、入口までは行ったことがあります」
「案内をお願いできますか」
ユイはすぐには返事をしなかった。
リオも急かさなかった。
広場では、最後の縄が外されていた。灯祭の飾りがなくなると、空が少し広く見えた。
「今日ですか」
「できれば」
「夕方までには戻るんですよね」
「そのつもりです」
ユイはリオを見た。
「そのつもり、は信用しにくいです」
「努力します」
「もっと信用しにくくなりました」
リオは少しだけ沈黙した。
ユイは小さく笑った。だが、その笑いはすぐに消えた。
「分かりました。入口までなら案内します」
「ありがとうございます」
「でも、奥までは行きません」
「はい」
「それと、戻れそうになかったら戻ります」
「承知しました」
「あと、靴が終わります」
「靴が」
「古道はぬかるむんです。命より先に靴が悲鳴を上げます」
リオはユイの靴を見た。
確かに、昨日から何度も町の中を走った靴は、すでに泥と灰で汚れている。
「替えの靴は」
「ありません」
「では、無理はしない方が」
「そう言われると、私だけ無理をしているみたいですね」
「違いますか」
「違わないですけど」
ユイは少し不満そうに言い、紙灯籠を教会の者へ渡した。
「薬屋に戻って、道具を取ってきます。薬草を採りに行くと言えば、不自然ではありません」
「よろしいのですか」
「リオさん一人で行く方が、不自然です。昨日からずっと記録を見て、荷車を見て、教会を見て、それで北東古道へ一人で行ったら、目立ちます」
リオはユイを見た。
その判断は、思ったよりも正確だった。
「助かります」
「そのかわり、無茶はしないでください」
「承知しました」
「本当に?」
「はい」
ユイは少し疑わしそうに見た。
「では、薬屋の前で待っていてください。あまり店の中を見ないでくださいね」
「なぜですか」
「薬屋は散らかっているので」
「それは」
「見ないでください」
「分かりました」
ユイはそう言って、広場を横切っていった。
リオはその背を見送った。
クレイア村は地図にない。
だが、クレイア預地は記録にある。
守るために名を問わなかった場所。
今、その名を使って通った者がいる。
ミナ・ロウ。
クレイア家。
番号十七の木札。
南方預託。
まだ、売買と呼べる証拠はない。
けれど、助けられているようにも見えなかった。
リオは赤屋根亭の方へ一度視線を戻し、それから薬屋のある通りへ歩き出した。
北東古道の先に、地図にない村はない。
それでも、そこには何かが残っている。
少なくとも、誰かがその名を使った理由だけは。