第1章 欠番の宿場町
1-4 横線の名
祭り明けのルドエンは、昨日よりも低い声で動いていた。
広場に渡された縄は、まだ外されていない。火の消えた紙灯籠が朝の風に揺れ、白い紙はところどころ煤け、橙の紙は端だけが丸く焦げている。石畳には、踏まれた麦穂の飾り、割れた菓子の欠片、灯り皿からこぼれた灰が残っていた。
昨夜、町を満たしていた笑い声は消えていない。
ただ、朝の光にさらされると、それは少し眠そうで、少し気恥ずかしいものに変わっていた。
子どもたちは広場の端に座り込み、燃え尽きた灯籠と、絵の残った灯籠を分けている。燃え尽きたものは、願いが届いたものとして灰の籠へ。絵や願いの文様が残ったものは、まだ祈りを待つものとして教会へ運ぶ籠へ。
大人たちはそれを叱る声も出しきれない様子で、縄をほどき、芯を集め、白い小花を外していた。
赤屋根亭の女将は、店先の卓を拭きながら、欠けた焼き菓子を皿にまとめていた。
「祭りの翌朝は、町じゅうが眠い顔になるんだよ」
「昨夜は遅くまで灯りが残っていました」
「そう。残るのは灯りじゃなくて、片付けなんだけどね」
女将はそう言って、皿の端にあった焼き菓子を一つリオの方へ寄せた。
「食べるかい。昨日の残りだけど」
「いただいてよろしいのですか」
「残り物を遠慮されると、こっちが困るんだよ」
「では、いただきます。ありがとうございます」
リオが受け取ると、女将は少しだけ満足そうに笑った。
「そうやって礼を言うから、欠け菓子が立派なもんに見えるね」
リオは紙に包まれた焼き菓子を手に、広場へ視線を戻した。
楽しいものは、終わった後にも形を残す。紙と灰、菓子の欠片、踏まれた花。そこに、消えた火の匂いが混じっていた。
石畳に残った荷車の轍は、もう曖昧だった。人の足、馬の蹄、朝の掃き掃除が、昨夜の通過を少しずつ均している。
地面の跡は、早く薄れる。
誰かが控えに引いた線だけが、消されるまで同じ形をしている。
リオは赤屋根亭を出た。
南門へ向かう道の途中で、ユイを見かけた。
彼女は外された紙灯籠を腕いっぱいに抱え、子どもたちと一緒に、燃え尽きたものと燃え残ったものを分けていた。焦げた紙、絵の残った紙、芯だけになった皿。それらを別々の籠へ入れている。
隣の子どもが、煤けた灯籠を丸ごと灰の籠へ入れようとした。
「それ、灰にしない」
ユイが短く止める。
「だって焦げてる」
「絵が残ってるでしょ。これは灰の籠じゃない」
「燃えたら叶うんじゃないの」
「燃えきったらね。残ったのは、もう一回祈ってもらうの」
「面倒」
「願いを途中で捨てる方が、もっと面倒になるの」
子どもは不満そうにしながらも、灯籠を広げ直した。
ユイはリオに気づくと、紙束を抱えたまま軽く頭を下げた。
「リオさん、おはようございます」
「おはようございます。朝からお疲れさまです」
「祭りの後は、こっちが本番みたいなものなので」
「手伝いは毎年?」
「そうです。逃げると、後でサナおばさんに見つかります」
ユイは少しだけ笑って、すぐに手元へ戻った。
昨夜の荷車については言わない。
南門のことも聞かない。
ユイは紙束を抱え直し、子どもたちの方へ戻った。
リオは会釈だけ返し、南門へ向かった。
南門の石柱には、白い小花がまだ結ばれていた。昨夜の灯りの下ではやわらかく見えた花が、朝になると少し萎れている。門の横の机はすでに片づけられていたが、小屋の扉は開いていた。
昨夜と同じ門番が、腰に手を当てて欠伸を噛み殺している。
リオは領主府の依頼状を見せた。
「昨夜はお疲れさまでした。少しだけ確認させていただけますか」
門番は依頼状を見て、渋い顔をした。
「少しで済むならな」
「できるだけ短く済ませます」
「そう言う奴ほど長いんだ」
言葉は荒いが、門番は小屋の中から控えを出した。表紙には煤の小さな跡があった。昨夜、灯りの近くに置かれていたものだろう。
「役場へ回す前の写しだ。持っていくなよ」
「ここで確認します」
リオは控えに手を触れず、門番が開いた記載を見る。
そこには、日付、南門通過、荷、旅人、巡礼者の欄が並んでいた。
祭りの夜の行は、普段より詰まっている。筆跡もところどころ乱れていた。火の揺れ、人の声、急かす商人。それらが黒い字の傾きに残っている。
記された荷は、樽二つ、麻袋三つ、小箱一つ、空荷の車一台。その横に持ち主名の欄があり、短い横線が引かれていた。行き先欄にも、同じような線がある。
「この横線は、未記入の処理でしょうか」
リオが尋ねると、門番はその記載を覗き込んだ。
「ああ。空けたままにすると、後で書き足したって言われる。線で潰す」
「祭りの日には多い処理ですか」
「多い。荷も人も流れが速いからな。全部をきれいに書いてたら、門の前が詰まる」
「空荷の車は、荷預かり所側で名を補う扱いだったのでしょうか」
門番は少し面倒そうに眉を寄せた。
「そういうことだ。荷預かり所から来た。赤紐扱い。札は取れたと言われた。空荷なら、先に通す」
「ありがとうございます」
リオはすぐに頭を下げた。
リオがすぐに退くと、門番の肩から少し力が抜けた。
「昨日の騒ぎで、それ以上聞かれてたら門が止まってたよ」
「それで門は流れたのですね」
「理解してくれるなら、役場の奴らにも言っといてくれ」
「伝える機会があれば」
門番は苦笑した。
「必要がありそうな顔をしてるな」
リオは曖昧に礼をし、南門を離れた。
次は教会だった。
教会前では、昨夜使われた灯り皿が水桶の中で洗われている。陶器が触れ合い、小さな音を立てていた。助祭は入口横の小机で台帳を布で拭いていた。
リオが依頼状を示すと、助祭は少し困った顔をした。
「昨夜も、外から見ておられましたね」
「今日は台帳の該当欄だけ確認させてください」
「信仰記録ですので、すべてをお見せするわけには」
「信仰内容ではなく、旅人記録と押印欄の確認です」
助祭は少し考え、台帳を開いた。
昨日の日付の下に、名、出身地、押印、出発門の欄が並んでいた。
押印済みの行は整っている。名があり、出身地があり、丸い印が押されている。字が崩れた行もあるが、祭りの夜としては自然な範囲だった。
その途中に、押印のない行が一つある。
名欄と出身地欄には横線があり、押印欄は空白だった。出発門の欄には、小さく南とある。
「この行は、どのような扱いですか」
「灯りは受け取ったが、祈りの印は受けなかった者でしょう」
「名欄と出身地欄は、聞かなかったために線を?」
「おそらくは。昨夜は人が多く、途中で列を離れる者もいました」
「最初から名を聞かない場合でも、行を作りますか」
助祭は手を止めた。
「空いたままの行は、あまり見かけません。名を聞けなかった者は、そもそも記録に入れないことが多いので」
「少なくとも、何かを書き入れる前提の行に見えます」
助祭は、慎重に頷いた。
「そう見えます」
名はない。
出身地もない。
印もない。
だが、南へ出たことだけは残っている。
その行では、人の名よりも、移動した事実だけが先に残されていた。
「ありがとうございます。十分です」
リオは深追いしなかった。
教会を出ると、広場の片付けはさらに進んでいた。
子どもたちが、昨夜の灯渡しの口上をふざけて真似している。
「名を問わず、道を問わず、灯をどうぞ!」
「言い方が変」
ユイが灯籠の紙をまとめながら注意する。
「変じゃないもん」
「変。あと、ふざけて言うものじゃない」
「だって毎年言ってる」
「毎年言ってるから、ちゃんと言うの」
ユイはそれだけ言って、子どもの手から焦げた紙を受け取った。
リオは足を止めた。
名を問わず、道を問わず、灯をどうぞ。
それが祭りの口上だった。
昨日、子どもたちは旅人へ灯りを渡していた。名前を聞く子はいなかった。行き先を聞く子もいなかった。ただ、火を渡し、無事を願った。
それは優しい作法に見えた。
今も、そう見える。
だが、同じ言葉が南門控えと教会台帳の横線に重なると、別の形を取り始める。
リオはユイに近づきすぎない距離で声をかけた。
「今の言葉は、毎年言うものですか」
ユイは紙束を抱えたまま振り向いた。
「はい。子どもでも言えます」
「意味を教わりますか」
「意味……ですか」
ユイは少し考えた。
「旅人に細かいことを聞かないで、灯りだけ渡す、みたいな感じだと思います。知らない人にも、ちゃんと道がありますように、って」
「由来も聞きますか」
「昔、そういうふうに始まったって聞いたことはあります。でも、詳しくは……サナおばさんとか女将さんの方が知ってると思います」
「ありがとうございます」
「いえ。ちゃんと説明になってないですけど」
「十分です」
リオはそこで礼を言い、ユイの抱えた紙束へ視線を戻した。
彼女はまた子どもたちに呼ばれ、焦げた灯籠を受け取りに行く。リオはそれ以上、呼び止めなかった。
荷預かり所へ向かうと、サナはすでに声を張っていた。
「焦げた縄はこっち。使える杭は戻す。割れた箱は勝手に薪にしない。誰だい、菓子の紙を樽に入れたのは」
「私じゃない!」
「俺でもない!」
「じゃあ樽が自分で食べたのかい」
サナはリオに気づくと、疲れた顔で目を細めた。
「灰色の補助員さん。祭りは終わったよ」
「昨夜はお疲れさまでした」
「そう言って来る人は、だいたい仕事を増やすんだ」
「できるだけ増やさないようにします」
「確認かい」
「昨日の荷について、少しだけ」
「少しで済むといいけどね」
サナはそう言いながらも、控え台の荷受け控えを閉じなかった。
リオは依頼状を出さない。昨日確認済みだ。サナも求めなかった。
「南門へ出た赤紐の荷について確認させてください」
「南門で聞けばいい」
「南門では通過数を確認しました。こちらでは、出荷元の扱いを確認したいのです」
「言い方が丁寧な人ほど、面倒なところを突くね」
「お手数をおかけします」
「分かってるなら早くおし」
荷受け控えが開かれる。赤紐、南門行き。荷は樽二つ、麻袋三つ、小箱一つ、荷車一台。その横の荷車欄には、北門扱いから振替、行き先札なし、空荷扱いとある。持ち主欄と荷確認者欄には横線が引かれていた。
南門では持ち主名欄に、教会では名欄と出身地欄に、荷預かり所では持ち主欄と荷確認者欄に、それぞれ横線が引かれていた。
筆跡も場所も違う。だが、名前を残す欄だけが、同じ方向に閉じられているように見えた。
「この荷車は、北門扱いから赤紐へ移っています」
「邪魔だったからね」
「空荷と判断した方は」
サナは荷確認者欄を見た。そこにも横線があり、彼女の手が一拍だけ遅れた。
「祭りの日は、全員が全員の代わりをする。名を書いてたら、荷より紙が詰まる」
「助かります」
リオは荷確認者欄に視線を戻した。
祭りの日の町は、普段の手順を少し緩める。緩めなければ回らない。省略は、それだけで不正とは言えない。
だが、省略が同じ対象に集まりすぎている。
その時、外からユイの声がした。
「サナおばさん、これ残す方?」
「何だい」
「札。灯籠の縄に引っかかってた」
「どこの札だい」
「分かんない。端が削れてる」
ユイが入口に顔を出した。片手には焦げた縄、もう片方には小さな木札がある。
「貸しな」
ユイは木札を渡した。
リオは、少し離れた位置からそれを見た。
小さな木札。
赤い紐の切れ端。
端に泥。
表には、荷預かり所で使う番号が焼き印で入っている。
十七。
リオは控えへ視線を落とす。
北門受けの荷車。控え番号は十七。赤紐振替、行き先札なし、空荷扱い。持ち主欄には横線が引かれていた。
木札には、番号だけが残っていた。
名前を書く場所は、薄く削られている。刃物で切ったような鋭さではない。硬いもので何度も擦った跡だった。削れた面だけが白く、泥や煤より新しい。
「確認してもよろしいでしょうか」
リオはサナに聞いた。
サナは不機嫌そうに木札を台の上へ置いた。
「持っていくなよ」
「持ち出しません」
リオは木札に触れず、距離を保って観察した。
番号十七、赤紐、名前欄の削り跡。その三つが、控えの横線と並んだ。
「壊れた札は、普段どう扱いますか」
「破損控えに残す時もある」
「今回は」
サナは荷受け控えの少し先をめくった。木札破損欄にも、横線がある。
リオは目を細めた。
名前がなかったから横線が引かれた、とは限らない。
先に名前を書く場所が削られ、その後で控えの欄が閉じられたのだとすれば、順序が逆になる。
「この札は、昨夜の荷車のものですか」
サナは木札と控えを見比べた。
「番号は一致してる」
「名前欄が削られています」
「踏まれたんだろう」
「踏まれて削れる位置ではありません。泥は札の端にあります。削れた面だけが白い」
サナは黙った。
ユイは焦げた縄を抱え直した。
「サナおばさん、縄は捨てる方?」
「……そっちは捨てる方」
「はい」
ユイはそれだけ言って、外へ戻った。
リオに何かを説明することも、問いかけることもしない。
ただ、片付けの途中で見つけたものを、いつもの相手に渡しただけだった。
証拠として差し出されたのではない。
町の後始末の中から、不要物として出てきた。
リオはサナに向き直った。
横線が荷車だけの処理なのか、人の名にも及んでいるのか。そこだけは確認しておく必要があった。
「もう一点だけ確認させてください」
「まだあるのかい」
「ミナ・ロウという名の旅人の荷扱いはありますか」
サナの手が止まった。
「名前だけじゃ分からないね」
「十六歳。北門入町。同行者なし。翌朝南門出町。出身地はクレイア村です」
「役場で聞きな」
「荷預かり所に該当があるかだけ見せてください」
サナは荷受け控えをめくった。
北門扱い、宿屋取り置き、教会回し、小荷物。ある行で一度止まり、リオはその位置を見た。名欄にはミナ・ロウ。荷種は小袋一つ。出身地欄にはクレイア村、受取欄には横線が引かれている。
その行だけ、周囲より字が少し薄かった。
サナは荷受け控えを閉じようとした。
「小袋一つ。預かりじゃない。通過扱いだ」
「受取欄は」
「本人が持って出たなら、受取はいらない」
「では、なぜ線が」
サナはリオを見た。
「空欄を残さないためだよ」
リオは破損欄の横線を見た。
線の形ではなく、閉じられている場所が似ていた。
リオは礼を述べ、荷預かり所を出た。
広場の片付けは進んでいる。昨夜の灯籠は縄から外され、燃え尽きたものと燃え残ったものに分けられていた。焦げた芯は桶に集められ、欠けた菓子は子どもたちの手に渡っている。
楽しさは消えていない。
ただ、形を変えて片付けられている。
燃え尽きたものは、届いた願い。
燃え残ったものは、まだ祈りを待つ願い。
名を問わず、道を問わず、灯をどうぞ。
それは、旅人を守る言葉だったのかもしれない。
だが昨夜、その言葉に似た形で通された荷車は、誰の名を守ったのか。
それとも、誰の名を残さなかったのか。
リオは赤屋根亭へ戻り、二階の部屋に入った。
窓辺には、昨夜受け取った小さな灯りの皿がある。火はもう消えていた。芯の先だけが黒く丸まり、陶器の底に薄い煤が残っている。
リオは窓辺に立った。
窓の外では、ユイが子どもたちと灯籠を分けている。燃え尽きたものと燃え残ったもの、届いた願いと、まだ祈りを待つ願いを分けるように。
町は昨夜の灯りを片付けていた。
明るさの後始末には、作法がある。
けれど名前の後始末は、木札の上に白く残る。
リオは消えた灯りの皿を見た。
クレイア村は、地図にない。
それでもミナ・ロウという名は、この町を通った。
そして番号十七の木札では、名前だけが白く削られていた。