第1章 欠番の宿場町
1-3 灯の下を通る荷車
夕方が近づくと、ルドエンは昼とは別の町になった。
広場に渡された縄の下で、紙灯籠が一つずつ起こされていく。昼の光の中では頼りなく見えた薄紙に、小さな火が入る。白い紙は乳色に、黄色い紙は蜜のように、橙の紙は火よりも少しやわらかい色に変わった。
子どもたちは、火入れ役をやりたがっていた。
「私の番!」
「さっきやっただろ」
「さっきのは小さいやつ!」
「火に大小はないよ」
そう言いながら、大人たちは結局、次の灯籠を子どもの手に任せる。子どもは急に真面目な顔になり、両手で火種を持った。灯籠の中へ小さな火が移ると、周囲から拍手が起きた。
「ほら、できた!」
「燃やさなかっただけ偉い」
「燃やしてない!」
「だから偉いって言ってるんだよ」
叱る声も、笑う声も、昼より少し丸い。
旅人のための祭りだと聞いた。
けれど、灯りが入るたび、喜んでいるのは旅人だけではなかった。宿屋の女将も、荷預かり所の者も、鍛冶屋の娘も、役場へ紙束を運んでいた少年も、誰かが火を入れるたびに少しだけ顔を上げる。
町は、自分たちで自分たちを明るくしているように見えた。
リオは赤屋根亭の二階の窓辺に立っていた。
広場の灯りは増えている。だが、荷預かり所の軒下は、まだ半分影の中にあった。名札のない荷車は、その影に紛れている。
行き先札は、まだない。
荷台の上には、昼にはなかった薄い麻布が一枚かけられていた。
何かを隠すには薄すぎる。
何もないことを見せるには、少し多すぎる。
リオは窓辺を離れた。
階段を下りると、赤屋根亭の一階は祭り前の客で混んでいた。女将が盆を片手に人の間を抜け、焼き菓子の皿を卓へ置いている。皿の端には、欠けた菓子だけが別に積まれていた。
女将はリオを見ると、皿の一つを指で寄せた。
「出るなら、一つ持っていきな」
「売り物では」
「欠けてるからね」
「いただいてよいのですか」
「いいんだよ。値段は下がる。味は変わらない。だから得だ」
リオは受け取った。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどの菓子じゃないよ」
「味が変わらないなら、十分です」
女将は少し笑った。
「そういう言い方をされると、欠けた菓子も出世したみたいだね」
リオは紙に包まれた焼き菓子を持ち、外へ出た。
広場の灯りはさらに増えていた。
子どもたちが小さな灯りを持って、町に入ってきた旅人へ差し出している。
「旅人さん、火をどうぞ」
「次の町まで消えませんように」
「馬が転びませんように」
「財布を落としませんように」
最後の願いだけ、近くの大人が「それは大事だね」と言って笑った。灯りを受け取った商人は照れたように銅貨を置き、子どもの頭を撫でた。
リオの前にも、小さな男の子が来た。
「旅人さん、火をどうぞ」
差し出された灯りは、小さな陶器の皿に乗っていた。芯に火が灯っている。紙灯籠の中の火よりも、ずっと頼りない。
リオは一瞬だけ手を止めた。
旅人へ灯りを渡す祭り。
道中の無事を願う火。
受け取った者は礼を言い、消さずに持つ。
それだけのことだと分かっている。
それでも、自分がその火を向けられる側になることには、少しだけ慣れていなかった。
「いただきます」
リオはそう言って、灯りを受け取った。
男の子が満足げに笑う。
「消さないでね」
「気をつけます」
「旅人さん、きれいな髪だね」
近くの大人が「こら、失礼だよ」と子どもをたしなめた。
リオは少しだけ目を伏せた。
「大丈夫です」
子どもはもう次の旅人の方へ走っていった。
横から、声がした。
「リオさん、火、傾いてますよ」
ユイだった。
彼女は細い縄を肩にかけ、片手に欠けた焼き菓子を持っていた。口元に砂糖の粉が少しついている。
リオは手元を見た。
陶器の皿の火が、少し斜めに揺れていた。
「失礼しました」
「謝るところじゃないです。消えなければ大丈夫です」
「受け取る側になるのは、少し慣れていません」
ユイは少しだけ首を傾げた。
「旅人に渡すものですから、受け取っていいんですよ」
「ええ」
「分かってても、固まることはあります」
リオは返答を探したが、すぐには見つからなかった。
ユイは焼き菓子の欠けた端をかじった。
「リオさんも、欠けたやつをもらったんですね」
「そうなのですね」
「欠けたやつが一番いいんですよ。売り物じゃないって言い訳できますから」
「実際には食べたいのですね」
「そこを真面目に確認しないでください」
ユイは紙に包んだ菓子を胸元に隠すように持ち直した。
「言い訳は、使えるうちは大事なんです」
「うまいやり方ですね」
「そこまで大きくしなくていいです」
ユイは軽く言って、南門の方を見た。
南門へ続く道には、人が集まり始めている。子どもは旅人へ灯りを渡し、大人は灯籠を吊るす。焼き菓子を売る老婆の横を、荷を急がせる商人が通った。
その間を、赤紐を結ばれた荷がゆっくりと動いていた。
リオは灯りを片手に持ったまま、少し離れた位置から荷預かり所の軒下を見た。
名札のない荷車が動いている。
二人の女が横棒を押し、年配の男が後ろから支えていた。荷車は空荷に見える。薄い麻布が一枚、荷台の上で揺れているだけだ。
だが、他の赤紐の荷に混ざっている。
北から来た青紐の荷だったものが、南へ出る赤紐の端にいる。
「変な旅人さんでも、旅人は旅人です」
ユイが言った。
「私のことですか」
「他に灯りを持ったまま荷車を見ている人、いませんから」
「目立っていましたか」
「少しだけ。火が傾いていました」
リオは手元を見た。
陶器の皿の火が、また少し斜めに揺れている。
「気をつけます」
「それならいいです」
ユイは小さく笑った。
「南門、混みますよ」
「昼に確認しました」
「夜の混み方は別です。祭りになると、人の流れが変わりますから」
「気をつけます」
ユイはそれ以上説明しなかった。
案内ではない。
協力でもない。
ただ、同じ方へ歩いている。
リオは灯りを消さないよう、半歩遅れて歩いた。
南門の周りは、昼に見た時よりも狭く感じた。
石柱の間には大きな紙灯籠が二つ吊るされている。白い小花を結んだ杭のそばでは、子どもたちが旅人に灯りを渡していた。助祭が小さな祈りを唱え、門番が控えに何かを書き、商人が荷を急がせる。
願いと祈り、笑い声と車輪の音が、同じ場所に集まっている。
綺麗だった。
綺麗な分だけ、見分けにくい。
名札のない荷車は、赤紐の荷の後ろについていた。
行き先札はない。
麻布は薄く、灯りを受けるたびに荷台の床板が透けて見える。昼に見た細長い擦れ跡までは見えない。
門番が声を張った。
「赤紐、順に。宿屋取り置きは通すなよ。南へ出る荷だけだ」
樽が二つ、麻袋が三つ、小箱が一つ、順に通る。最後に荷車が一台、前へ出た。
リオは門番の机に近づきすぎない場所に立った。灯りを持つ旅人としてなら、不自然ではない。門番の手元は、灯籠の光で時々見えた。
リオは筆先の動きと控えの行、荷の数を追った。名を書く欄と行き先を書く欄へ、門番の手が移る。やがて門番が声に出した。
「樽二。麻袋三。小箱一。空荷の車一」
空荷の車。
若い女が荷車の横棒を押している。年配の男が後ろを支える。二人とも急いではいない。目立つほど遅くもない。
門番が顔を上げた。
「札はどうした」
若い女が答える。
「荷預かり所で外れたそうです」
「誰の車だ」
若い女は、一拍だけ止まった。
ほんの一拍だった。
祭りの声に紛れる程度の短さ。
「空荷です」
答えになっていない。
けれど門番は、それ以上聞かなかった。
控えの欄に筆を置く。
持ち主名の欄。
そこに、文字は入らなかった。
代わりに、短い横線が引かれた。
空欄ではない。
空欄に見せないための線。
リオは目を伏せ、手元の灯りを少し持ち直した。火が揺れる。子どもに言われた通り、消さないようにする。
荷車が動いた。
その時、ユイの声が横から飛んだ。
「こら、走らない」
小さな女の子が灯りを持ったまま荷車の前へ出かけていた。ユイは縄を片手で引っかけるようにして、その子の袖をつかむ。
「走ってない!」
「灯りを持ってる時は、急がない。転んだら火が落ちる」
「落とさないもん」
「落としたら、紙灯籠に移る。服にも移る。だから止まって」
ユイの声は強くはなかったが、手は離さなかった。
女の子は口をとがらせたが、足は止めた。
周囲の大人が笑い、近くの男が灯りの皿をそっと受け取った。
荷車はその脇を通った。
車輪が石畳を噛む。
乾いた軽い音ではない。
麻布の下で、木と木が触れたような音が一度だけ鳴った。
それでも誰も止めず、振り向かなかった。
灯祭の中では、荷車の音も、子どもの声も、祈りの言葉も、同じ夕方の音になる。
リオは荷車を追わなかった。
門を出た後ろ姿だけを、灯籠の揺れの間から見る。
荷車は石柱を抜け、白い小花の杭を越え、南へ向かう人の背に隠れた。
見失うには、十分だった。
「リオさん」
ユイが呼んだ。
リオは振り向いた。
「灯り、消えてませんか?」
リオは手元を見た。
小さな火は、まだ残っていた。
「消えていません」
「よかったです」
「気にしていたのですか」
「子どもに頼まれてましたから」
ユイはそう言って、さきほど助けた女の子から礼代わりの小さな紙片を受け取っていた。灯籠を作る時に余った紙らしい。そこには、丸い顔のような絵が描かれている。
「これは何ですか」
リオが聞くと、ユイは紙片を見た。
「たぶん馬です」
「顔だけですね」
「顔だけの馬です」
「祭りの絵としては、いいと思います」
ユイは一瞬だけ黙った。
「……そういう褒め方、初めて聞きました」
「褒めたつもりです」
「たぶん、しています」
ユイは笑い、女の子を親らしい女のもとへ押し戻した。
リオは南門の机へ視線を戻す。
門番は次の荷の処理を始めている。さきほどの空荷の車は、もう前の行になっていた。
名前の欄には横線があり、行き先の欄にも、おそらく同じ処理がされている。
灯籠の影で、線の端までは見えなかった。
けれど、空欄ではないことだけは分かった。
名前ではないのに、名前欄を空白にしないための線。
荷車そのものより、その線を引いた誰かの手つきの方が残った。
教会の小さな鐘が鳴った。
リオは南門から教会の方へ歩いた。
ユイはついてこなかった。
教会前でも、灯りの受け渡しが行われていた。旅人が小さな火を受け取り、助祭が印を押し、子どもが焼き菓子の欠片をもらっている。祈りの場というより、町の人が旅人を少しだけ引き止める場所に見えた。
入口横の小机には台帳が開かれている。そこには、名、出身地、押印、出発門の欄が並んでいた。
助祭は旅人の名前を聞き、印を押す。祈りの言葉を短く唱える。次の者を呼ぶ。
リオは列の端に立った。
中へは入らない。
見える範囲だけでよい。
今日の欄の途中に、押印のない行が一つあった。
名の欄は、助祭の袖で隠れている。
ただ、出身地の欄の端に、短い線のようなものが見えた。
押印欄は空白だった。
空白と線が、同じ記載の中に並んでいる。
助祭が顔を上げた。
「巡礼ですか」
「いいえ」
「灯りの祝福ですか」
リオは手元の小さな火を見た。
「もう受け取りました」
「では、よい旅を」
助祭は短く言った。
リオは軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
それ以上聞く必要はなかった。
リオは教会を離れた。
広場へ戻ると、町はさらに明るくなっていた。
灯籠の列が風に揺れ、白い紙に描かれた鳥や車輪や麦穂が、火の中で少しずつ形を変える。子どもたちはまだ走り、大人はまだ叱り、旅人は小さな火を受け取って笑う。
ルドエンは楽しい町だった。
少なくとも今夜は、そうであろうとしていた。
だからこそ、その中で名前の欄に引かれた横線だけが、妙にはっきり残った。
赤屋根亭へ戻ると、女将は忙しそうに皿を運んでいた。
「灯り、消さなかったね」
「消しませんでした」
「偉い偉い。じゃあ、もう十分旅人だ」
「それは助かります」
「硬いねえ」
女将は笑い、客の方へ戻っていった。
リオは二階へ上がった。
部屋に入ると、窓を少し開けた。
広場の灯りが、部屋の壁に淡く揺れている。外から笑い声が入ってくる。紙の鳴る音。小さな鐘。遠くの車輪の音。
名札のない荷車の音かどうかは、もう分からない。
リオは窓辺に立った。
窓辺の灯りが、小さく揺れた。
まだ消えていない。
外では、町の人々が笑っている。子どもが走り、大人が叱り、旅人が火を受け取って南へ向かう。
ルドエンは、明るい町だった。
明るい町のまま、誰かが名札のない荷車を送り出した。
そしてその後に、誰かが名前の欄だけを、静かに横線で閉じていた。