第1章 欠番の宿場町
1-2 灯祭と名札のない荷車
リオは役場を出て、広場の端へ向かった。
昼に近づいたルドエンは、朝よりも音が増えていた。鐘楼の影は短くなり、広場には細い縄が何本も渡されている。紙灯籠を抱えた子どもたちが、その下をくぐったり、縄に頭をぶつけたりしていた。
「走るな。紙が破けるよ」
「破けてない!」
「破けてからじゃ遅いんだよ」
叱った女の声に、周りの大人が笑った。子どもは頬をふくらませたが、抱えていた灯籠を少しだけ高く持ち直した。
紙灯籠はまだ火を入れられていない。
白、黄、淡い橙。麦穂の絵、車輪の絵、鳥とも魚ともつかない絵。旅人の無事を願う祭りだと聞いたが、描かれた線はずいぶん自由だった。
リオはその下を通り抜ける。
焼き菓子の甘い匂いが背後に薄れ、代わりに藁と馬と古い木の匂いが近づいてきた。
荷預かり所は、赤屋根亭の裏手にあった。
建物は低く、屋根だけが大きい。深い軒の下には、木箱、樽、麻袋、布包みが積まれている。横には荷車を留める杭が並び、杭ごとに小さな木札が下がっていた。
札には名前ではなく、番号と記号が刻まれている。
荷主の名ではない。置き場と順番を示すためのものだろう。
リオは軒の手前で足を止めた。
木札、荷に結ばれた紐、荷車の位置、係の者の手元。順に見る。一つずつ、見すぎないように。
「リオさん、今度は荷物ですか」
声は、軒下の奥から来た。
ユイだった。
大きな紙灯籠を抱えたまま、木箱の陰から顔を出している。役場での用事はもう済ませたらしい。腕に下げた籠には、朝と同じ薬草の包みと、役場で受け取ったらしい細い控えの束が入っていた。
「預ける荷はありません」
リオが答えると、ユイは灯籠を抱え直した。
「じゃあ、見る用事ですね」
「はい」
「荷預かり所に荷物なしで来る人は、あまり多くないですよ」
「そうでしょうね」
「自覚はあるんですね」
「あります」
ユイは少しだけ笑った。
朝より少し近い。けれど、馴れ馴れしいほどではない。町の中で一度道を案内した旅人に、もう一度声をかけた。それくらいの距離だった。
「その灯籠は」
リオが聞くと、ユイは腕の中の紙灯籠を見た。
「赤屋根亭の前に吊るすものです。曲がってしまって」
「曲げたのですか」
「曲がったんです」
「違いがありますか」
「あります。責任の置き場所が違います」
リオは少し考えた。
「責任はどこに」
「風です」
「今は吹いていません」
「だから困っています」
ユイは真面目な顔で言った。
その横から、年配の女の声が飛んだ。
「ユイ、風のせいにするなら、もう少し風がある日にしな」
「サナおばさん、聞こえてましたか」
「聞こえるように言ってるんだろう」
ユイはリオに向かって小さく肩をすくめた。
「サナおばさんです。荷と札と、町の面倒を見てる人」
「町の面倒」
「だいたいです。本人に言うと怒られます」
「聞こえてるよ」
サナの声がまた飛んだ。
ユイはすぐに灯籠を抱え直した。
「聞こえるところで言うのが悪いんです」
「口が減らないね」
「手は動かしてます」
「なら半分だけ許す」
サナはそう言いながら、控え台の上の紙束を片手で押さえていた。白髪混じりの髪を後ろでまとめ、袖を肘までまくっている。歓迎する余裕も、追い返す余裕もない。忙しい人間の顔だった。
リオは一歩進み、依頼状を出した。
「リオ・アスターです。領主府より、生活実態確認の補助で来ています」
サナは依頼状を受け取り、印だけを見た。
門番より早く、役場のダレンよりも雑だった。
「役場から回されたのかい」
「そのようです」
「灯祭の日に」
「ええ」
「役場らしいね」
サナは依頼状を返した。
「で、何を見る」
「北門扱いの荷を少し確認します」
「青紐だよ」
サナは軒下を顎で示した。
「北から来たのは青。南へ出すのは赤。教会へ回すのは白。宿屋取り置きは黄色。触らない。動かさない。邪魔しない。以上」
「ありがとうございます」
「礼はいいから短くして」
会話はそこで切られた。
リオはそれ以上、すぐには聞かなかった。
青紐の荷は、軒下の左側に集められていた。
干し麦袋が三つ。陶器小箱が二つ。布包みが一つ。小袋が一つ。そして荷車が一台。
数は控えの端に見えた行と合っている。
だが、荷車だけが少し離れていた。
他の青紐の荷より、杭一本ぶん南門側に寄っている。
古い荷車だった。横板には焼き印があるはずだが、その部分が煤けて黒い。荷台は空に近い。けれど床板には、何か細長いものを並べて載せたような擦れ跡が残っていた。
行き先札がない。
正確には、札を結んでいたらしい紐の切れ端だけが、荷台の端に残っている。
リオは荷車を見続けなかった。
隣の樽を見る。麻袋を見る。杭の木札を見る。控え台の上で動くサナの指を見る。
それから、もう一度だけ荷車を見た。
「気になりますか」
ユイが戻ってきた。
細竹を二本抱えている。灯籠を直すためのものだろう。
彼女の視線は、荷車ではなくリオの手元に向いていた。
「行き先札がありません」
リオは短く答えた。
「札くらい、外れることはあります」
「よくありますか」
「よくはないです。でも、祭りの前はあります」
ユイは即答した。説明ではなく、生活の感覚だった。
「子どもが触る。商人が急ぐ。おばさんが怒る。誰かが勝手に動かす。あとでまた怒られる」
「怒る人が多いですね」
「町を回すには必要なんです、怒る人」
「そういうものですか」
「そういうものです」
ユイはそこで話を切り、細竹を持ち直した。
「あの車、古いですし」
「古いと札が外れやすいのですか」
「古いと、だいたい全部ゆるいです」
「全部」
「車輪も、板も、持ち主の管理も」
「持ち主を知っていますか」
「知りません」
答えは早かった。
少し早すぎた。
リオはそれ以上、聞かなかった。
サナの声が飛んだ。
「ユイ、竹だけ持って帰るんじゃないよ。割れた木箱も戻しときな」
「私が割ったんじゃないです」
「戻すのは割った人間じゃなくてもできる」
「理屈が強い」
「口が動くなら手も動く」
ユイは顔をしかめ、細竹を一本リオの方へ差し出した。
「少し持ってもらえますか」
「どこまで」
「赤屋根亭までです。灯籠を直します」
「私は荷預かり所に用があります」
「そこに長くいると、手伝いに数えられますよ」
リオはサナの方を見た。
サナは別の商人に向かって「赤紐は右だって言ってるだろう」と声を荒げていた。
ユイは小声で続けた。
「近くにいる人から使われます」
「退避した方がいいと」
「はい。今ならまだ間に合います」
リオは細竹を受け取った。
「助かります」
「どういたしまして」
ユイは少し得意そうに言い、歩き出した。
リオも細竹を持ったまま、半歩遅れてついていく。
荷預かり所を離れる直前、サナの声が背中に届いた。
「その青紐の車、夕方までに向こうへ寄せときな。赤紐側が詰まるよ」
若い女が返事をした。
「札なしのやつ?」
「そう、それ」
それだけだった。
誰も驚かない。
誰も問い返さない。
名札のない荷車は、忙しい町の中で、ただの面倒な荷車として扱われていた。
リオは振り返らなかった。
ユイも振り返らない。
ただ、彼女の細竹を持つ手が、少しだけ揺れた。
赤屋根亭の前では、女将が腕を組んで待っていた。
「ユイ、遅い」
「竹を選んでました」
「口で?」
「手も使いました」
「じゃあ半分は合格」
女将はリオを見た。
「そっちは?」
「リオさんです。領主府の補助員さん」
「荷預かり所で拾ったのかい」
「拾ってません。持ってもらっただけです」
「似たようなものだね」
「違います」
リオは細竹を差し出した。
「こちらでよろしいですか」
女将はそれを受け取り、リオを上から下まで見た。
「手が空いてるなら、そこの縄を押さえて」
「私ですか」
「他に手が空いてる人がいないだろう」
「押さえます」
ユイが少し笑った。
「すみません、巻き込まれてます」
「構いません」
「本当に?」
「少しなら」
「少しで済むといいですね」
女将が「聞こえてるよ」と言って、灯籠の紐をリオの方へ渡した。
リオは縄の端を持った。
ユイは灯籠の骨を直し始める。手つきは、軽口ほど雑ではない。薄い紙を破らないように指を入れ、曲がった骨を細竹に差し替えていく。
「右を少し上げてください」
ユイが言った。
リオは縄を上げた。
「上げすぎです」
リオは下げた。
「下げすぎです」
「基準が狭いですね」
「灯籠は少しの差で曲がります」
「そういうものですか」
「そういうものです」
ユイは紐を結び直した。
女将が横から見て、鼻を鳴らす。
「少し傾いてるね」
「味です」
ユイが言った。
リオは灯籠を見上げた。
「傾きです」
「味です」
「傾きだね」
女将が言った。
ユイは少しだけ悔しそうな顔をした。
「では、味のある傾きです」
「譲らないねえ」
女将は笑いながら、店の中へ戻っていった。
町の通りには、灯祭の準備が続いている。
子どもが縄を引き、大人が紙灯籠を吊るし、老婆が焼き菓子を売り、鍛冶屋の娘が金具を直す。誰かが失敗し、誰かが叱り、誰かが笑う。その繰り返しで、町は夕方へ向かっていた。
ユイは直した灯籠を見上げたまま、少し声を落とした。
「リオさん」
「はい」
「さっきの荷車、触らない方がいいですよ」
「理由を聞いても?」
「サナおばさんに怒られます」
「それだけですか」
「それだけです」
答えは軽かった。
けれど、ユイは灯籠から目を離さなかった。
リオはそれ以上聞かなかった。
「気をつけます」
「本当に分かりました?」
「触らないようにします」
「見るのは?」
「必要なら」
ユイは苦笑した。
「そういうところ、怒られますよ」
「誰に」
「いろんな人に」
「いろんな人」
「町は、だいたいそうです」
ユイはそこで話を終わらせた。
竹の残りを抱え、教会前の方へ向かう。
「次は教会ですか」
リオが聞くと、ユイは振り返った。
「灯籠の紙を届けるんです。破れたものは、教会の人が直すので」
「手伝いですか」
「薬屋の用事のついでです」
「ついでが多いですね」
「祭りの前は、みんなそうです」
ユイは少し笑った。
「リオさんは来なくていいですよ」
「理由を聞いても?」
「荷物もないのに荷預かり所へ行く人が、用もないのに教会へ来たら、少し目立ちます」
「用があれば」
「あるんですか」
リオは答えなかった。
ユイは口元だけで笑った。
「じゃあ、まだ来なくていいです」
そう言って、彼女は人の流れの中へ入っていった。
リオは赤屋根亭の前に残った。
荷預かり所は、そこから少し見える。
名札のない荷車は、まだ軒下にあった。
行き先札はない。
焼き印は煤けている。
荷台の擦れ跡は、遠目には見えない。
札がなければ、誰の荷かを問われにくい。
祭りの日なら、なおさらだった。
昼を過ぎると、町はさらに騒がしくなった。
南門へ続く道には、灯籠を吊るすための縄が渡されていた。馬車一台なら通れる。二台は難しい。人が集まれば、荷車の横を誰が歩いているかも見えにくくなる。
リオは南門まで歩いた。
門というほど立派なものではない。北門と同じように、石柱と横梁があるだけだった。白い小花を結んだ杭があり、その上にも灯籠が吊るされる準備がある。
夕方になれば、ここに人が集まる。
旅人の無事を願うために。
荷車の行き先を見失うためではない。
リオは引き返した。
荷預かり所の前を通る。
名札のない荷車は、先ほどより南門側へ寄せられていた。
杭の位置が変わっている。
青紐の荷の中にあったものが、赤紐側の端にある。
行き先札はないまま。
煤けた焼き印もそのまま。
車輪の泥は乾き始めていた。麦街道の乾いた土より、少し濃い。
リオは足を止めずに通り過ぎた。
そのまま赤屋根亭へ戻る。
女将は、リオを見るなり鍵を出した。
「泊まるんだろう」
「まだ何も言っていません」
「ここしかないからね、宿屋は」
リオは少しだけ黙った。
「助かります」
「だろう?」
女将は鍵を机に置いた。
「二階の奥。広場側。灯祭の夜はうるさいよ」
「ありがとうございます」
「そう言う人ほど寝られない」
「覚悟しておきます」
女将はしばらくリオを見て、それから笑った。
「あんた、変わってるね」
「今日、何度か言われました」
「今日だけじゃ済まないだろうね」
二階の部屋は狭かった。
寝台、机、椅子、水差し。窓を開けると、広場と荷預かり所の屋根が見える。紙灯籠は昼の光の中で、まだ頼りなく揺れていた。
夜になれば、違って見える。
リオは外套を椅子にかけ、鞄を机に置いた。
窓の外では、ユイが教会前で紙の束を受け取っていた。正確には、受け取った束の半分を相手に押し返している。声は聞こえないが、動きで分かった。
荷預かり所の軒下も見える。
名札のない荷車は、屋根の影に半分隠れていた。
リオは机に向かった。
外では灯祭の準備が続いている。笑い声と足音、紙の鳴る音に、時おり車輪の音が混じった。
リオは机に手を置き、窓の外へ視線を戻した。
灯籠の一つが風に揺れている。
まだ火は入っていない。
それでも町の人々は、もう夕方の明るさを信じて動いていた。
その下を、名札のない荷車が通ることになる。
それがただの空車かどうかは、まだ分からない。