第1章 欠番の宿場町
1-2 灯祭と名札のない荷車
役場を出ると、通りの明るさが少し強く感じられた。
建物の中にこもっていた紙と木の匂いが背中に残っている。外では灯祭の準備が進み、軒から軒へ渡した縄に、まだ火の入っていない灯籠が吊られていた。
町は忙しい。
だが、忙しい町ほど、流れから外れたものは見えにくくなる。
リオは役場前の掲示板をもう一度見た。
灯祭期間中、夜間通行は南門に限り一部許可。
荷預かり所の受付は夕刻まで。
祭り用の竹材、紙、油、縄の搬入は中央通りを避けること。
どれも、祭り前の町なら普通の知らせだった。
普通の知らせの中に、荷の流れだけが少し多い。
北門の通行控えでは、祭り用品の搬入が増えている。南門の控えでは、古道沿いから入った荷の一部が、翌日以降に南へ抜けている。祭りの時期なら説明はつく。
だが、説明がつくことと、確認しなくてよいことは違う。
リオは掲示板から視線を離し、通りの先へ歩き出した。
荷預かり所は役場から遠くない。
宿場町では、門と役場と荷預かり所の距離は町の性格を表す。ルドエンでは、それらが近い。人と荷と記録が、同じ場所を通る町だった。
「リオさん、役場の用事は終わったんですね」
声をかけたのはユイだった。
薬草の束はもう持っていない。代わりに、細い竹と縄を抱えている。灯祭の飾りに使うものらしく、縄の端には小さな紙片がいくつか挟まっていた。
「はい」
リオは答えた。
「次は荷預かり所を確認します」
「荷物を預けるんですか」
「いいえ。宿場の物資確認と、通行維持の確認です」
ユイは聞き慣れない言葉に、少しだけ眉を寄せた。
「通行維持?」
「人と荷が動くために必要なものです。油、飼葉、補修材、荷車の戻り先などを見ます」
「……役場の人って、そんなことも見るんですか」
「必要があれば」
ユイは荷預かり所の方を見た。
「じゃあ、サナさんに聞いた方が早いです。荷札のことなら、だいたい覚えてます」
「サナさん」
「荷預かり所の人です。私も薬草を送る時に何度かお世話になってます」
ユイは抱えていた竹を少し持ち直した。
「ただ、忙しい時に長く聞くと、少し顔が怖くなります」
「怒る方ですか」
「いいえ。手は止めないまま、返事だけ短くなります」
リオは荷預かり所の入口を見た。
荷車が二台、軒下に寄せられている。木札の下がった荷、布で覆われた荷、空に見える荷。その横を、人が慌ただしく行き来していた。
「では、短く確認します」
「それがいいです」
荷預かり所の軒下には、木札がいくつも吊られていた。
荷主、行き先、受付門、受取予定、預かり番号。札の形はそろっているが、紐の色が違う。北門から入った荷には青い紐、南門へ出す荷には赤い紐、町内で受け渡す荷には白い紐が使われている。
分かりやすい。
分かりやすい仕組みほど、外れた時に目立つ。
リオは木札の列を見た。
青い紐の札が多い。
祭りの前なら、北から竹や紙や油が入るのは自然だった。赤い紐の札もある。南へ抜ける荷、宿場を経由する荷、町内で一度積み替える荷。
その中で、一台だけ、札のない荷車があった。
荷車は軒下の端に寄せられている。大きくはない。車輪には泥がついているが、古道の深い泥ではなく、門前の踏み固められた土の色に近い。荷台には薄い麻布が掛けられていた。
空に見える。
だが、空の荷車にしては、布を掛けている。
ユイが小さく言った。
「あれ、まだ残ってる」
「知っている荷車ですか」
「いえ。朝、北門の方から入ってきたのは見ました。名札がなかったから、サナさんが少し困ってました」
「名札がない荷は珍しいのですか」
「荷物なら珍しいです。空の車なら、たまにあります」
ユイは竹を抱えたまま、荷車の方を見た。
「でも、空なら普通は端に置いて、すぐどかします。祭り前は邪魔になるので」
「今日は邪魔になっていない」
「なってます」
ユイは即答した。
「でも、誰も強く言わないんです」
その言い方は、調査ではなかった。
町の中でいつも動いている人間の、普通の違和感だった。
リオは荷車には近づかず、受付の方へ向かった。
帳場では、若い女性が木札を束ねていた。髪を後ろで簡単に結び、袖をまくっている。手元は速い。荷札を取り、控えと照らし、紐の色を確認して別の箱へ入れる。顔は上げない。
ユイが声をかけた。
「サナさん」
「今、手が離せないよ」
返事は短かった。
ユイはリオを見た。
「顔は怖くないです。まだ普通です」
サナが手を止めずに言った。
「聞こえてるよ」
「聞こえるように言いました」
「忙しいって見れば分かるだろ」
「分かってます。だから短くします」
サナはそこでようやく顔を上げた。
「用件はなんだい」
リオは身分札を見せた。
「領主府補助員のリオです。宿場の物資と、通行維持に関わる荷の流れを確認しています。祭り期間中の搬入と、南門への出し荷について、いくつか確認をお願いします」
サナは身分札を見て、リオの顔を見た。
「役場から来たのかい」
「はい」
「役場が直接来ればいいのに」
「必要な確認だけです」
「みんなそう言うよ」
サナは木札を一枚箱に入れ、控えの束を閉じた。
「何を見たいんだい」
「祭り期間中の搬入記録と、南門へ回す荷の控えです。祭り用品だけでなく、宿場の維持物資も確認します」
「維持物資?」
「油、縄、布、飼葉、乾燥食、車輪材、薬包、補修材。人と荷を動かすために必要なものです」
サナは控えの束を一つ引き寄せた。
「それなら、こっちだね。祭り用品とは束が違う」
「分けているのですか」
「分けるよ。竹や紙は祭りの荷。飼葉、油、補修材は宿場の荷。混ぜると、後でどこに出したか追えなくなる」
「確認先も変わるのですね」
「そう。祭りの荷は町内で終わることが多い。宿場の荷は門をまたぐ」
サナは控えをめくり、紐の色ごとに束を分けた。
「青が北門。赤が南門。白が町内。黒い印が宿場維持。油と飼葉はこっち。車輪材は昨日の分。薬包は薬屋経由」
リオは控えを見た。
「南門へ出る維持物資はありますか」
「あるよ。空樽、布袋、壊れた車輪材。使い終わったものを戻す時もあるし、南の宿場へ回す時もある」
「受け取り先は」
「普通は入る。宿場名、受取人、預かり番号」
「抜けることは」
「あるよ。でも、抜けたまま通すものじゃない」
「空荷の場合は」
「車を動かすなら残す。誰の車か。どこへ戻すか。空だから何も書かない、は通らないよ」
リオは頷いた。
「では確認します。今朝、北門から入った荷の中に、札のない荷車が一台あります」
サナの目が、少しだけ軒下へ動いた。
「……あれかい」
「はい。北門扱いで入り、現在は軒下に置かれています」
「入ったというか、置かれたんだよ」
「置かれた」
「北門の混雑で、先に荷預かり所へ回された。後で札をつけるって話だった」
「誰がそう言いましたか」
サナは控えをめくった。
「北門の下働き。荷主本人じゃない」
「荷主名は」
「空欄」
「行き先は」
「空欄」
「受取人は」
「空欄だね」
「荷の種類は」
サナは少し間を置いた。
「空荷扱い」
リオは軒下の荷車を見た。
「布が掛けられています」
「だから困ってるんだよ」
サナは声を低くした。
「空荷なら布はいらない。荷があるなら札がいる。でも、北門では空荷扱いで回ってきた」
「確認しましたか」
「外からだけ。開けるなとは言われてない。でも、こういう時は先に責任者を通す。勝手に触って、後で荷が壊れたと言われると面倒だよ」
「責任者は」
「今、祭りの搬入で出てる」
ユイが横から言った。
「それで残ってるんですね」
「そう」
サナは短く答えた。
「邪魔」
やはり、怒ってはいない。
ただ、忙しい中で処理できない荷があることに苛立っている。
リオは控えに目を落とした。
北門扱い。
受付番号は未記入。
荷主名、空欄。
行き先、空欄。
受取人、空欄。
荷種、空荷。
備考、後刻札付け。
筆跡は一定しているが、最後の備考だけ少し急いでいる。
「この後、どう処理されますか」
「責任者が戻れば、札を付ける。見るならその時さ」
「南へ出す予定があるのですか」
「今は聞いてないよ」
サナは言った。
「ただ、祭りの時期は、北から入って南へ抜ける荷が多い。祭りの余り物もあるし、宿場の戻し荷もある。全部ここを通るわけじゃないけどね」
「名札なしで南へ出ることは」
「普通はない」
即答だった。
ユイが小さく頷いた。
「荷札がないと、門番が聞きます」
「聞くだけで通すことは」
リオが尋ねると、サナは少しだけ口を曲げた。
「人によるよ」
それは、町で働く人間の答えだった。
規則はある。
ただし、規則を扱うのは人間だった。
リオは礼を言った。
「確認は以上です」
サナは少し驚いた顔をした。
「本当に短いね」
「忙しいと伺いました」
「誰から」
リオはユイを見た。
ユイは視線をそらした。
サナはため息をついたが、手元の木札をまた束ね始めた。
「助かるよ。長い確認は邪魔だからね」
「札を付けるのは夕方前ですか」
「灯祭の準備が一段落した頃だね」
「分かりました」
リオは控えの位置と、荷車の場所を目で確認した。
荷車は軒下の端。
麻布。
札なし。
空荷扱い。
後刻札付け。
その程度なら、まだ異常とは呼べない。
だが、北門の控えにあったミナ・ロウの行と同じように、説明がつく形で置かれていることが気になった。
人は、不自然なものをそのまま置かない。
普通に見える理由を添える。
ユイが荷預かり所の外へ出ると、抱えていた竹を持ち直した。
「リオさん、これからも確認ですか」
「はい」
「ずっとですか」
「必要な間は」
「役場の人は大変ですね」
リオは少しだけ間を置いた。
「そうですね」
ユイはリオの返事を聞いて、少し不思議そうな顔をした。
「違うんですか」
「大変な役目の人は、多いと思います」
「それは、そうですけど」
ユイは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
その代わり、通りの向こうを見た。
「私は赤屋根亭に行きます。灯籠の縄を直すって、女将さんに頼まれてるので」
「赤屋根亭」
「宿です。南門に近い方の」
南門。
リオはその言葉を覚えた。
「荷預かり所から南門へ出る荷は、赤屋根亭の前を通りますか」
「全部じゃないです。でも、通ることはあります」
ユイはそう言ってから、少し考えた。
「祭りの日は、人が多いので、裏の道を使うこともあります」
「裏の道」
「荷車がぎりぎり通れる道です。狭いです。壁にぶつけると、赤屋根亭の女将さんがすごく怒ります」
「怒る方ですか」
「怒ります」
ユイははっきり言った。
「でも、怒ってる時の方が分かりやすいです。機嫌がいい時の方が、たまに怖いです」
リオは赤屋根亭の方角を見た。
南門に近い宿。
荷の抜け道。
灯祭の飾り。
今はまだ、どれも普通の町の要素だった。
ユイは竹を抱え直した。
「リオさんは、夕方も荷預かり所に来るんですか」
「必要があれば」
「じゃあ、また会うかもしれませんね」
「そうですね」
「会わない方が、普通の用事では済んだってことかもしれませんけど」
言ってから、ユイは自分で少し困った顔をした。
「変な言い方しました」
「いいえ」
リオは答えた。
「意味は分かります」
ユイは軽く頭を下げ、赤屋根亭の方へ歩いていった。
歩きながら、通りの上に張られた縄を見上げる。竹と縄を抱えたまま、子どもが折った灯籠の角を直すために足を止める。誰かに呼ばれて返事をし、また歩き出す。
町の中で、ユイは自然だった。
どこに誰がいて、何を手伝えばいいのかを知っている。
リオは荷預かり所へ視線を戻した。
軒下の名札のない荷車は、まだそこにあった。
祭りの準備が進むにつれて、通りはさらに明るくなっていく。灯籠の紙が日に透け、竹の骨が細い影を落としていた。荷車の麻布は、その明るさの中で、かえって色を持たなかった。
しばらくして、荷預かり所の奥から男が一人戻ってきた。
サナが何かを説明する。
男は荷車を見て、控えを見て、短く頷いた。
遠くて声は聞こえない。
だが、赤い紐が取り出されるのは見えた。
リオは少しだけ位置を変えた。
荷車の横に、新しい木札が下げられる。
荷主名の欄は、遠目には見えない。
行き先の欄も、ここからは読めない。
ただ、紐は赤かった。
北門扱いで入った札なしの荷車が、夕方前には南門へ出る荷として扱われようとしている。
人の流れが途切れ、リオの視界が一瞬だけ開いた。
木札の下の欄に、文字ではない線が見えた。
名前ではない。
だが、空白でもない。
短く引かれた横線だった。
リオは近づかなかった。
今ここで触れれば、荷車はただの不審物になる。周囲の人間が身構え、後の流れが変わる。必要なのは、止めることではなく、どこへ向かうかを知ることだった。
南門へ。
灯祭の夜、旅人へ灯りを渡す町の中を。
名を問わず。
道を問わず。
その下を、名札のない荷車が通ることになる。