第1章 欠番の宿場町
1-1 北門から来た名
朝の街道は、焼きたてのパンの匂いがする方へ続いていた。
夜明けの少し後、乗合馬車は宿場町ルドエンの手前で止まった。車輪の下で石畳が短く鳴り、馬が白い息を吐く。麦畑の上にはまだ薄い霧が残っていて、遠くの丘は淡い青に沈んでいる。
御者が振り返った。
「ルドエンだ。ここで降りるんだろう、灰かぶりの兄さん」
深くフードを被った旅人が、静かに立ち上がった。
外套は旅埃を吸って灰色に見える。顔はほとんど見えない。肩から下げた革鞄も古く、金具はくすんでいた。目立つ徽章も、派手な装飾もない。
ただの旅人。
少なくとも、その馬車に乗っていた者たちにはそう見えた。
旅人――リオ・アスターは、御者に短く礼を言い、馬車を降りた。
靴底が湿った石畳を踏む。馬車は荷を降ろすでもなく、すぐ次の町へ向かうらしい。御者は手綱を鳴らし、馬を進めた。
「迷うなよ、兄さん。ルドエンは小さいが、荷車の陰に入ると道が分からなくなる」
リオは軽く頭を下げた。
馬車が遠ざかる。
あとに残ったのは、麦の匂いと、遠くから流れてくるパンの匂いと、まだ完全には目を覚ましていない宿場町の気配だった。
ルドエンの入口には、砦のような門はなかった。
街道を挟むように石柱が二本立ち、その上に木の横梁が渡されている。横梁には古びた町名板が吊るされていた。
宿場町ルドエン。
墨はところどころ薄いが、最後の一文字だけは濃い。最近、誰かがなぞり直したのだろう。
石柱のそばにいた門番が、眠そうな目を上げた。五十代ほどの男だった。槍を持っているが、姿勢はあまり堅くない。
「旅人か」
リオは小さく頷いた。
「役場に用があります」
フードの奥から返ってきた声は低く抑えられていた。男とも女ともつきにくい。
門番は、灰色の外套と古びた鞄を順に見た。
リオは鞄から、領主府名義の通行依頼状を取り出した。
表向きの肩書は、巡回書記補佐。
領主府が派遣した、戦時徴用後の生活実態確認の補助員。
そう読めるようになっている。
門番は依頼状を受け取り、細かな文面までは読まず、印だけを確認した。
「領主府の印か。通れ。役場は鐘楼の隣だ」
依頼状が返される。
リオは一礼して、石柱の間を抜けた。
町の朝は明るかった。
街道沿いには赤茶色の屋根が並び、宿屋の窓から湯気が漏れている。馬小屋では少年が藁を運び、鍛冶場では若い女が火床に炭を足していた。市場の準備はすでに始まっていて、干し魚、布、陶器、香草、黒パンが木台の上に並べられていく。
人々はよく動いていた。
よく笑ってもいた。
ただ、その声の中で、若い男の声は少ない。
荷を運ぶのは女たちと年配者が多かった。少年が馬を引き、老婆が水桶を運び、鍛冶屋の娘が槌を持つ。戦争や内乱の影は、町を黒く染めてはいない。ただ、あちこちの仕事の持ち主を変えていた。
広場の中央には井戸があった。
井戸の縁には白い花と黄色い小花が供えられている。白い花の茎はまだ湿っていた。今朝、替えられたばかりらしい。
井戸の横では、老婆が薄い焼き菓子を売っていた。
小さな鉄板の上で、丸い生地が一枚ずつ焼かれている。端が少し焦げるたび、甘い匂いが朝の冷えた空気に混じった。
リオは一枚買った。
老婆はフードの奥を覗こうともせず、紙に包んで渡してくる。リオは広場の端でそれを食べた。薄く、甘く、少し焦げている。旅の途中の朝食としては十分な味だった。
リオが焼き菓子の最後の一片を口に入れた時、老婆の店先に若い女が駆け寄ってきた。
「おばさん、乾かした月根草、届いてますか」
「届いてるよ。ほら、薬屋の娘は朝から忙しいね」
「祭りの前は、どこも忙しいです」
「焼き菓子屋もだよ」
「それはおばさんが勝手に忙しくしてます」
女はそう言いながらも、老婆から小さな包みを受け取った。
薄茶色の髪を後ろで束ね、濃紺の作業服の袖を肘までまくっている。年は十七か十八ほど。腕に下げた籠には、乾かした薬草と、小瓶を包んだ布が入っていた。
歩き方に迷いがない。市場の人間と目が合えば短く笑い、子どもが走ってくれば自然に避ける。
町の道も、人の流れも、彼女の歩幅に馴染んでいた。
老婆は焼き菓子を返しながら、リオを見た。
「この旅人さん、役場を探してるんだとさ」
女がリオの方を見た。
リオは軽く頭を下げた。
「役場へ行きたいのですが」
「私もちょうど役場に向かいます。薬代の控えを取りに」
老婆が笑った。
「ちょうどいい。薬草と薬代の控えと、ついでに旅人も持っていきな」
女は少しだけ真面目な顔になった。
「旅人を持っていく、という言い方は失礼です」
近くで灯籠の紙を畳んでいた女たちが笑った。
老婆は肩を揺らした。
「じゃあ、案内しておやり」
「はい」
女はリオへ向き直った。
「役場なら、こちらです」
「ありがとうございます」
女は小さく頷き、歩き出した。
リオは半歩遅れてついていく。
彼女は早足だった。薬草の入った籠を片腕で抱えたまま、人混みの隙間を抜ける。説明は少ない。だが、必要なものはよく見えていた。
赤屋根亭。
荷預かり所。
鍛冶屋。
教会。
鐘楼。
灯祭の準備に使う縄。
今年は男手が少ないから、子どもも灯籠を吊るすこと。昔は荷運びの若者がもっといたこと。祭りの前は、薬屋にも小さな怪我や咳の相談が増えること。
ユイはそれらを、立ち止まらずに話した。
道端で縄を結び直している老人には「あとで湿布を持っていきます」と声をかけ、灯籠の紙を抱えた子どもには「走ると角が折れます」とだけ言った。
町のことを説明しているというより、町の中をいつもの手順で通っているようだった。
「お名前を伺っても?」
リオが聞くと、彼女は振り返らずに答えた。
「ユイです」
「ユイさん」
「はい。薬屋の娘のユイです」
「リオです」
「リオさんですね」
ユイはそう言って、迷わず角を曲がった。
役場は鐘楼の隣にあった。
石造りの一階建てで、扉の上には麦穂と車輪を組み合わせた町章が掲げられている。中に入ると、紙と湿った木の匂いがした。
役場記録官のダレンは、痩せた中年の男だった。眠そうな目をしているが、帳簿の上に置かれた指は正確に動く。
机には未処理の紙束が積まれていた。昨日の印泥が蓋の縁で乾き、帳簿の紐はほどけかけている。朝から何度も同じ説明をし、何度も同じ印を押した人間の机だった。
ユイは慣れた様子で、入口横の木箱を開けた。役場の人間も、それを止めない。普段からそうしているのだろう。
リオは依頼状を出す前に、フードの紐を緩めた。
役場の中は外よりも薄暗い。顔を隠したまま書面を差し出せば、余計な警戒を招く。
フードが肩へ落ちた。
銀灰の髪が、灰色の外套から静かにこぼれる。朝霧を映したような青灰色の目が、机の上の灯りを受けて淡く光った。
ダレンは、依頼状を受け取るために伸ばしかけた手を止めた。
さっきまで彼の顔には、紙束と印泥と帳簿の重さが残っていた。だが、その一瞬だけ、目元の疲れが抜け落ちた。
仕事を忘れたのではない。
忘れようとしても、目が先に戻ってしまうのだ。
リオの顔立ちは、古い役場の湿った空気の中で、場違いなほど整っていた。
華やかに笑うわけではない。
誰かを誘うような甘さもない。
それでも、目を離すには少しだけ惜しくなるような美しさだった。
ダレンは依頼状に視線を落とそうとした。
だが、文字を読む前に、またリオの顔を見てしまう。
口元がわずかに開きかけ、すぐに閉じる。
ユイも木箱に伸ばしていた手を止めた。
一瞬、見入った。
けれど、ダレンほど長くは止まらない。すぐにまばたきをして、視線を木箱へ戻す。
それから、ほんの少しだけ眉を上げた。
視線が、フードの影と依頼状の間を一度だけ往復した。
リオ本人だけが、その沈黙を用件の遅れとして受け取った。
依頼状の折り目を正し、机の中央へ置く。
「領主府より派遣された巡回書記補佐、リオ・アスターです」
そこでようやく、ダレンは依頼状を受け取った。
「ああ……領主府の」
彼は紙面に目を落とした。
けれど、最初の一行は頭に入っていないらしい。視線がまた、紙面からリオの顔へ戻りかけた。
ユイが小さく咳払いをした。
その音で、ダレンはようやく我に返った。
「……戦時徴用後の生活実態確認、だな」
「その範囲です」
「帳簿は出す。今朝も荷馬車が詰まっている。手短に頼む」
声は、先ほどより少しだけ整っていた。
リオは淡々と頷いた。
「範囲を絞って確認します」
ダレンは机の下から三冊の帳簿を引き出した。配給記録、巡礼者台帳の写し、街道通行者控え。リオは順に開いた。
旅人の記録は、完全には一致しない。商人は荷を隠し、巡礼者は同行者を省く。門番は忙しければ日付を後で埋め、役場は配給数を丸める。
小さな差異は異常ではない。異常なのは、差異そのものではなく、差異が向かう先だ。
リオの目が、一つの名前で止まった。
ミナ・ロウ。年齢は十六、同行者はなし。
配給は、パン一つ、干し肉一切れ、湯一杯。ミナ・ロウは北門から入り、翌朝、南門から出ている。巡礼者台帳の写しにも、同じ日付の印があった。
三つの控えの中で、その人物は確かにルドエンを通っていた。
問題は、そこではなかった。
出身地の欄には、クレイア村とある。
リオは、三冊の帳簿をもう一度見比べた。配給記録にも、通行者控えにも、巡礼者台帳にも、同じ名前と出身地、同じ通過日が残っている。
一つだけなら、書き間違いで済ませられる。
旧地名なら、索引か改名一覧に残る。
地元だけの呼び名なら、役場の誰かが正式な地名を答える。
だが、三つの控えは同じ名を残しているのに、その名を受け止める場所だけが見つからなかった。
リオは鞄から広域地図を取り出した。
表紙には地図師組合の名が入っている。街道を旅する者が持っていても不自然ではない地図だった。だが、内側の折り目には、QO東部巡回支所の符号が薄く刻まれている。
リオは主要都市から村、巡礼路、橋、渡し場、監視所へと目を移した。
クレイア村はない。
索引にも、旧地名欄にも、廃村一覧にも、改名一覧にも、その名は見当たらなかった。
「クレイア村という地名に覚えはありますか」
ダレンは帳簿から目を上げなかった。
「この辺りに、その名の村はない」
「控えには、その名があります」
「書き間違いだろう」
「三冊に、同じ名が残っています」
そこで初めて、ダレンの指が止まった。
リオは通行者控えを指で押さえた。
「ミナ・ロウは北門から入っています」
ダレンは答えない。
「北門の先に、クレイア村はありますか」
「北門の先は麦街道だ」
「麦街道沿いの村なら、この地図に載っています」
リオは地図を机に広げた。
ルドエンの北側には、麦街道沿いの村名がいくつか並んでいる。
だが、その中にクレイア村はなかった。
「なら、そこにはない」
ダレンの返事は早かった。
早すぎた。
木箱の前で、ユイが包みを籠に入れ損ねた。乾いた薬草の束が、籠の縁に軽く当たる。
ダレンが彼女を見た。
「ユイ」
名前を呼んだだけだった。
ユイは薬草の束を収め直し、何も言わなかった。
リオはダレンを見る。
「では、その人物はどこから来たのですか」
ダレンは帳簿を閉じた。
「それは本人に聞くことだ」
「本人は、もう町を出ています」
「なら、役場で答えられることはない」
ダレンはそこで口を閉じた。
リオは地図の北門側に視線を落とした。
道はあり、村名もある。だが、ミナ・ロウの出身地として残された名だけが、その周辺から抜け落ちていた。
クレイア村。
地図にない村。
あるいは、地図の中で別の名を与えられた場所。
それとも、最初から村として扱われなかった名。
リオは地図を畳んだ。
ミナ・ロウは北門から町に入っている。出身地はクレイア村。地図にも索引にも該当はなく、役場の答えは否定へ急いでいた。
地図の上には見つからない。
けれど、控えの中では消えていない。
昼前、リオは役場を出た。
広場は朝より賑やかになっていた。灯祭の準備が始まっている。旅人が無事に次の町へ行けるよう、夕方に小さな灯りを吊るす祭りだという。
紙灯籠は安い。
だから、金のない年でも続けられる。
誰かがそう言った。
市場では、子どもたちが細い縄を持って走り、女たちが紙灯籠に紐を通している。老婆は焼き菓子を売りながら、若い者の手順に文句をつける。鍛冶屋の娘は、槌を置いて灯籠の枠を直していた。
町は明るい。
人手が足りないから、皆が少しずつ別の仕事をする。
その無理さえ、祭りの中では頼もしく見える。
リオは広場の端で足を止めた。
朝に見た市場、役場で出された帳簿、北門から入った若い通行者、地図にない出身地。それらはまだ、一本の線にはならない。
だが、別々の点として扱うには、近すぎた。
リオは広場を見た。
町は笑っている。
灯祭の準備で、子どもが走り、女たちが紙を折り、老婆が焼き菓子を売っている。
壊れている町ではない。
だからこそ、噛み合わない場所だけが見える。
リオは、笑っている広場をもう一度見た。
まだ言葉にするには早い。
けれど、この町をただの宿場町として通り過ぎるには、もう遅かった。